加藤清正と毒饅頭と平岩親吉

加藤清正毒饅頭を食べて死んだという説は上に書いたように『十竹斎筆記』という史料に登場する。ここでは家康・秀頼が二条城で対面した際の出来事で、清正・輝政・幸長が毒饅頭を食し、秀頼は腹痛を理由に食べなかったとある。平岩親吉は出てこない。


平岩親吉が出てくるのは『摂戦実録』(1752)で、内容は

平岩主計親吉思案を廻らし、謀を献じ、右之面々殿中に於て饗応を設ける亭に於て、毒殺有べしと事を究め、平岩亭主と成て相伴し、相共に毒を食す、初度の饗は加藤肥後守、浅野弾正少弼也、故に其年の四月六日弾正卒し、同年六月二十四日肥後守卒し、同年十二月晦日平岩卒す、斯くも又大阪荷担の輩は、三左衛門、紀伊守也、重々此の両人饗せられ、同十八年正月二十五日三左衛門輝政卒し、間もなく紀伊守幸長卒す、斯て太閤厚恩の大名失はるゝ事、秀頼を御取絶ち、行末天下障り無き事を思召と也。

というもの。時系列で示せば

二条城会見 慶長16年(1611年) 3月28日
浅野弾正少弼浅野長政 没年:慶長16.4.7
加藤清正 没年:慶長16.6.24
平岩親吉 没年:慶長16.12.30
三左衛門=池田輝政 没年:慶長18.1.25
紀伊守=浅野幸長 没年:慶長18.8.25

となる。ここでは毒を仕込んだのは二度であり、それにより死亡時期のズレの問題を合理的に解消している。1番目のターゲットは加藤清正浅野長政。これにより清正・長政・親吉が死亡。2番目のターゲットは池田輝政浅野幸長文脈を考えれば2番目の暗殺者は平岩親吉ではない(既に死んでるから)。時期は未詳だが慶長16年のこと(浅野長政常陸にいるので関東でのことだろう)だとして親吉は年末に死んでるから約1年かかって死んだことになる。とすれば輝政・幸長が毒を盛られたのは慶長17年か18年となるだろう。


しかし『摂戦実録』は毒を饅頭に仕込んだとは一言も書いてない。また平岩親吉は「亭主」だというから、その場に家康はいなかったものと思われる。

それによると、家康は会見場において秀頼の毒殺を図り、意を受けた腹心の平岩親吉は遅効性の毒のついた針を刺した饅頭を自ら毒見した上で秀頼に勧めたが、それを察した清正は自ら毒饅頭を食べてしまい自分の命と引き換えに秀頼を守ったという。

毒まんじゅう - Wikipedia
という話は『十竹斎筆記』の説と、『摂戦実録』の説とが合体したもののように思われる


その合体がいつの何という作品に見られるのかは調査中。


また『厭蝕太平楽記』(1764-72以前)の家康が毒を仕込んで、輝政・幸長に知らせずに茶を飲ませ、安心した清正も飲んで死んだという説との関係も気になるところ。