加藤清正毒殺説と「この紋所が目に入らぬか」

加藤清正毒殺説がどのように形成されていったのか知りたいんだけれども、今のところまとまった考察が見当たらない。情報がバラバラにあって次から次へと知らなかったものが出てくる。


今回は「毒まんじゅう」について。

史話の毒饅頭

慶長16年(1611年)3月の徳川家康豊臣秀頼の二条城での会見の直後、会見場で秀頼を護衛した加藤清正が急死する。それを受けて、まことしやかな「毒饅頭暗殺説」が巷間ささやかれ、後に歌舞伎の題材にもなった。

それによると、家康は会見場において秀頼の毒殺を図り、意を受けた腹心の平岩親吉は遅効性の毒のついた針を刺した饅頭を自ら毒見した上で秀頼に勧めたが、それを察した清正は自ら毒饅頭を食べてしまい自分の命と引き換えに秀頼を守ったという。

史実においても清正と平岩は会見後に死去している。しかし、清正が死去したのは同年6月24日であり、平岩の死去は12月30日であることから、同じ毒の影響にしてはあまりにも差があること、またこのような遅効性の毒は知られていないため歌舞伎の内容は俗説と見られている。また、この会見から2年ほどの間に浅野幸長池田輝政など、会見に参加した豊臣氏恩顧の大名が死亡しているが、これらについても毒殺であるという憶測がたてられることがある。

毒まんじゅう - Wikipedia


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世界大百科事典 第2版の解説
きよまさせいちゅうろく【清正誠忠録】
歌舞伎狂言。3世河竹新七作。時代物。6幕。原名題は《実成龝清正伝記(みのりのあきせいしようでんき)》。加藤清正毒饅頭(まんじゆう)の俗説を脚色したものであるため通称を《毒饅頭の清正》という。1875年10月東京新堀座(旧河原崎座)で初演。9世市川団十郎と8世岩井半四郎の出演が話題になった。このときは,江戸歌舞伎風に近江源氏の世界とし,加藤清正は佐藤正清,淀君は宇治の方といったが,94年3月に団十郎明治座で再演した時,名題を《清正誠忠録》と改め,登場人物を実名にした。

清正誠忠録(きよまさせいちゅうろく)とは - コトバンク
という記事がある。これは1875年(明治8)の作品。「佐藤正清」は『八陣守護城』の「佐藤政清」に類似。しかしながら『八陣守護城』で毒が仕込まれていたのは酒。その元ネタの『厭蝕太平楽記』では濃茶。毒饅頭ではない。しかも登場人物に平岩親吉


加藤清正毒饅頭(まんじゆう)の俗説」とあるけれど、それが何なのか?そもそも書物になっているのか?ということがわからない。当初は『八陣守護城』や『厭蝕太平楽記』より後の幕末に成立したんだろうと予想した。ところがさにあらず。意外と早い時期に出来た説らしいのだ。


この説を記録されている史料は『十竹斎筆記』という。こちらの記事によれば著者は佐々介三郎宗淳だという。
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佐々 宗淳(さっさ むねきよ、寛永17年5月5日(1640年6月24日) - 元禄11年6月3日(1698年7月10日))は、江戸時代前期の僧、儒学者水戸藩徳川光圀に仕えた。号は十竹(じっちく)、字は子朴(しぼく)、幼名は島介、通称は介三郎(すけさぶろう)。物語『水戸黄門』に登場する佐々木助三郎のモデルとされている。

佐々宗淳 - Wikipedia

二条城会見は1611年(慶長16年)3月28日だから。比較的早い時期のもの。『厭蝕太平楽記』は明和年間(1764〜72)以前とされている。『八陣守護城』は1807年。


何と書いてあるかというと

神君、秀頼公に御対面の時、三左(池田輝政)、紀伊守(浅野幸長)、主計(清正)、秀頼公を取持めざる。四人へまんぢう出けるが、針にてひたものさして、蜂の巣の様になりたるまんぢうなり。主計紀伊守は此毒にあたり、同頃国にて卒、秀頼公は虫気とてまいらざりしとなり。神君の御印籠には、不断毒を貯へ給ふとなり、御薨の時も御気付とありしに、御側衆かの毒を不知して献じければ、御だまりなされて御座云々。

「家康の印籠には毒が常に入っており、それを饅頭に針で注入して食べさせたので清正と幸長は同時期に死んだ。秀吉は腹痛と称して食べなかった。家康の死因も家康が気を失った時に、側近が印籠に毒が入っていることを知らずに気付け薬として与えてしまったから


あの葵の御紋の印籠にはこんな恐ろしい秘密が!!そりゃ助さんがあの印籠を出せば皆が平伏するはずである。


それもびっくりだが、御三家の水戸徳川家の光圀の側近がこんなこと書いてるのもびっくりである。なお佐々宗淳の父は肥後加藤氏に仕えていたというから、もしかしたら清正が死んだ時にも家臣だったのかもしれず、この記事も肥後家中での噂が元になっているのかもしれない。だとしたら同時代に既に噂が流布していた可能性はある。


※ しかしこんな面白い話がほとんど知られていないというのはもったいない。検索したところではネット上には上の「大阪城天守閣」と「加藤清正の実像 - 面白日本史Ⅱ」の2件しかないようだ。ただし「加藤清正の実像」の方には平岩親吉が出てくるけど俺の見た原文には出てこない。



※ それにしても家康が毒死したという話が『日本キリシタン教会史』にも出てくるという。これも俺には全く初耳の話で、おそらくあまり知られてない話。当時はかなり流布した話なんだろ。こっちはこっちで興味が出てくる。


※ 「蜂の巣の様になりたるまんぢう」って岡山名菓「むらすゞめ」みたいに外皮を裏返したものを連想させる。本当に清正達が食べたかはともかく当時実際にそんな饅頭が珍しいものとしてあったんだろうと推測する。
Murasuzume - むらすゞめ - Wikipedia