(諏訪で)信長が光秀を折檻したという伝説はいつ発生したのか?(その7)『祖父物語』

御供ニハ野尻迄西尾小左衛門計リ参リ候ヘ。其外ハ無用ト被仰不被召連。両人者家康公其外士供御使ニ被遣。

(お供には野尻(木曽郡大桑村)まで西尾小左衛門だけがついてこい。その他は無用であると仰せになり召し連れなかった。残りの「両人」は家康その他の武士への使者として派遣した。)
※ 「其外ハ無用ト被仰不被召連」で信長は野尻まで移動したと解釈できないこともないけれど、そうだとしても「両人者家康公其外士供御使ニ被遣」は呂久の渡での指示だと考えられる。両人は野尻までの道中に同道していないのだから当然であろう。すなわち時間は一度先に進んだけれどまた、元の場面に戻ったと理解すべきだろう。「両人」というのが誰なのか不明。西尾小左衛門は西尾吉次。
西尾吉次 - Wikipedia

勝頼於御退治者。駿河一国家公に進セラルヘシ。穴山梅雪謀ヲ能仕ヲヽセ候者ハ。甲州一国可被下。謀遅而先達而信忠勝頼ヲ討取ラハ。梅雪ニ甲州内鶴郡ヲ可被下。残ル所ハ川尻與兵衛ニ可被下。信州伊那郡ハ毛利河内ニ可被下。

(勝頼を退治したならば駿河一国を家康に与える。穴山梅雪が謀をよく成し遂げたならば甲斐一国を与える。謀が遅れて信忠が先に勝頼を討ち取ったときには梅雪に甲斐の内の都留郡を与え、残りは川尻与兵衛(河尻秀隆)に与える。信濃伊那郡は毛利河内(毛利秀頼)に与える。)

※「両人」を使者として派遣して伝えようとした内容であろう。穴山梅雪の「謀」とは、信忠が勝頼を討つことと対比させているので、内部工作で勝頼を自害させて武田家を乗っ取るとかいったことであろうと思われる。史実では勝頼は3月11日に死去。つまり『祖父物語』が史実に準拠しているならばこれはその前の話。

右の旨具ニ為申聞早々可罷帰ト被仰遣。

(右の内容を具に申し聞かせるため早々に罷り帰れと仰せやった)

※ 国割の詳細を諸将に伝達するために「両人」を派遣したということだろう。つまりこれも呂久の渡での出来事。ただし不審なのは「帰れ」と命令していること。帰れということは彼らは信長の直臣ではなくて諸将から信長の元に派遣されてきていると考えるべきだろう。また「両人」だと2人だと考えられ家康・梅雪・秀隆・秀頼の4人に対応できない。しかし文脈上これは「両人者家康公其外士供御使ニ被遣」の具体的内容に違いないと思われ、俺の解釈の問題というより『祖父物語』が「罷帰」と書いていることにそもそも問題があるのではないかと思われ(両人が家康・梅雪の家臣のみということなのかもしれないが)。

信州諏訪郡何レノ寺ニカ御本陣可被置ト。其席ニ而明智申ケルハ。扨モ箇様成目出度事不御座。我等モ年来骨折タル故。諏訪郡ノ内皆御人数也。何レモ御覧セヨト申ケルハ。信長御気色替リ。汝ハ何方ニテ骨折武辺ヲ仕ケルヲ。我社日頃粉骨ヲ盡シタル悪キ奴ナリトテ。懸造リノ欄干ニ明智カ頭ヲ押附テ扣キ給フ。其時明智諸人中ニテ耻ヲカキタリ。無念千万ト存詰タル気色顕レタル由傳タリ。

(信州諏訪郡のどの寺にか本陣を置くべしと〈信長の仰せがあった〉。その席にて明智が申すには、さても斯様に目出度いことはありませぬ。我らも年来骨を折ったために諏訪郡の内は全てお味方になりました。(信長様に敵対する者はおりませんので、どこの寺を本陣にしても支障はありません。本陣を選ぶのに)いずれの(寺も)検討対象にすべきでしょうと申したところ、信長の様子が替り「お前はどこで骨を折ったのだ?我(信長)こそ日頃粉骨を尽くしたのだ、お前はにくき奴だ」と、懸造りの欄干に明智の頭を押さえつけて叩いた。この時明智は諸人の中で恥をかいた。無念千万と思いつめた様子があらわれたと伝わっている。)


※ この部分「改定史籍集覧」では「御本陣をスヘラルト」とあるそうだ。「御本陣可被置ト」とかなり異なっていてどうしてそうなったと考えるに「被置ト」と「可」を抜かして「置」を「すえる」と読んで「スヘラルト」になるんだろうと思われる。「可被置ト」の場合は「オカルベキト」と読むと思う。
"可被置" おかるべき - Google 検索


桐野作人氏は納得してくださらないけれども、ここは「可被置ト」であり、信長がまだ諏訪入りしておらず、これから本陣をどこにするのか決めるという意味であると俺は思う。


理由は昨日既に書いたけれど、最大の理由は、この後に「諏訪寺ノ御入リノ時」とあり、光秀の折檻が諏訪の寺でのことならば、それはこの前に書かれるべきものであること。


また「何レノ寺ニカ」とあるのは『祖父物語』の著者が寺の名前を知らないからではなくて、この時点では本陣をどこに置くのか決まってなかったからだと解釈すべきであること。それに付け加えるに光秀が「何レモ御覧セヨ」と発言しているのは、信長の発言に応じたものだと解釈すべきであろう。


また、根拠として弱いことは承知しているけれども「懸造の欄干」はやはり呂久の渡にあると考える方が自然だと思われること。


また、「其席ニ」とは「信長が諏訪の寺のどれかを本陣にすると言った軍議の席に」と解釈すべきであり、「信長が諏訪の某寺に本陣を置いた」と解釈した場合、次にいきなり「其席ニ」とあっても「どの席だ?」となって全く解釈不能というわけではないのかもしれないけれど非常に不自然に思う。


そして前の記事に書いたけれども、信長は既に「目出度い」と言われて気分を害していたところに、光秀からまた「目出度い」と言われのでキレたのであり、それは同日の出来事とした方が「物語」として面白くできていること。


あと上に書いたように、少なくとも信長が諸将に使者を派遣したところまでは、呂久の渡での出来事と解釈できること。


以上の理由により、信長が光秀を折檻したの場所は諏訪ではないという考えを改める理由は今のところない。


(追記)
あと「諏訪郡ノ内皆御人数也」だけれど、これを「諏訪郡に織田軍が充満している」とするのは「皆」とあるのだから、素直に解釈すれば「諏訪郡の内には織田軍しかいません」ということになってしまい、これを武士だけに限定したとしても諏訪郡に元からいた武士は全員殺されたか追放されなければならないであろう。そんなことは起こりえない。これは「諏訪郡の内は全て味方になりました」と解釈すべきであろう。もちろんこの場合も現実には抵抗する者がいただろうから誇張表現だけれども、理論的にありえる度で考えれば大違いだと思うのである。