肥後国熊本様子聞書(その2)

そもそも「肥後国熊本様子聞書」とは何かというと
https://www.city.kumamoto.jp/common/UploadFileDsp.aspx?c_id=5&id=5566&sub_id=3&flid=55143

清正の死去後、熊本の様子を長州藩密偵が調査し、慶長16(1611)年7月10日に作成した「肥後国熊本様子聞書」には、
第2章 位置と環境 - 熊本市ホームページ (注PDF)

という解説がある。一方『加藤清正―築城と治水』(谷川健一)によれば

萩藩では慶長一六年(一六一一)一二月二六日の毛利秀就の初入国と藩内巡視にあたり、九州諸藩の動向を探る内偵が行われた。内偵が行われたのは、肥後藩を中心として北であり、豊前・豊後・筑前筑後肥前・肥後の各藩であった。「九州諸城図」は、このときの道筋と各藩に存在した城が略姿図で記されている。

とある。九州諸藩の動向を探っていたところ、加藤清正の死という事態が生じたので作成されたということだろうか?


共同通信2006年3月24日の記事に

現存する熊本城の絵図としては最も古い「肥後熊本城略図」が山口県文書館(山口市)に所蔵されているのを、熊本大の北野隆教授(日本建築史)らが発見した。
略図とともに残る「肥後国熊本様子聞書」の記述によると1612年ごろ、萩藩が送り込んだ間者(スパイ)が作成したという。
スパイが遺した熊本城略図: 日本史探求

とある。また

今回、山口県立文書館から見出した史料、絵図「九州諸城図」と「肥後熊本城略図」、文書「肥後国熊本様子聞書」と「肥後国熊本世間取沙汰聞書」を中心として
「清正の熊本城築城」北野隆

ところが『新熊本市史史料編第三巻近世Ⅰ』は1994年発行で、山口県文書館蔵とあるから、同じものだと思われ。このあたりどうなってるのかよくわからない。なお『「肥後国熊本様子聞書」の記述によると』とあるが、そんな記述は無いように思われ、これもよくわからない。史料集に載っていない部分があるのか?「記述を元に推理すると」という意味なのか?あるいはそれ以外か?


なお「肥後国熊本様子聞書」と「肥後国熊本世間取沙汰聞書」とあることから考えても、「肥後国熊本様子聞書」は町の噂話レベルではなく、熊本城内の様子を調査したものだと思われ、実際書かれていることもかなりハイレベルな情報だと俺は思う。このことからして、たとえば浅野幸長の死は誤報ではあるけれども、根も葉もない噂というわけではなくて、それなりの根拠があったのだと思う。父の浅野長政が4月7日に死んでいることから、幸長周辺で動きがあり、それが幸長の死ではないかとの憶測があり、その情報が熊本城内に伝えられ、それを毛利の密偵が聞いたということなのかもしれない。