北条氏康書状について(その21)

「駿州ニも今橋被致本意候」とは「今川義元が今橋を本意にした」という意味ではなくて、「今橋(戸田宣成)が駿州(今川義元)に本意を致した」という意味である。


では、その「本意」とは何か?それは文脈に沿って考えれば、今川義元の意に沿わないで、戸田宣成の望むところのものをしたということだろう。


それが何かはわからない。史料上にそれに該当する記述があるのかも不勉強だから知らない。


ウィキペディアには

この戸田氏の勢力拡大は、やがて今川氏の嫌疑を受けることになり、今橋城の宣成は天文15年初冬に今川氏の征討を受けた。

戸田宣成 - Wikipedia
とある。


ただ事実として天文15年に今川義元が今橋城を攻めたことは確認できる


「今橋被致本意候」とはそのことを言っているのだと研究者は考えている。しかしそうではないと俺は考える。逆に戸田宣成が義元に本意を致したのだと。


さて、義元が戸田宣成が城主である今橋城を攻めたことと、宣成が義元に本意を致したこととは矛盾するであろうか?


そんなことは全くないのである。


今橋(戸田宣成)が駿州(今川義元)に本意を致した結果として、義元が今橋を攻めたと考えれば両者は全く矛盾しないのである。


もちろん氏康文書をこのように解釈した場合、文書では義元が今橋を攻めたことについては言及していないことになる。しかしこの文の主題は「彼国被相詰之由」であるから、その原因となったことを記して、直接的に関係のないことは記さなくても不思議なことではないと思うのである。


(つづく)