北条氏康書状について(その22)

「駿州ニも今橋被致本意候」の「今橋」を今橋城または地域名ではなく「戸田宣成」のことだとし、また「今橋に」ではなく「今橋が」として
「駿州ニも今橋(戸田宣成が)被致本意候」
と読めば、難解だと思われたこの文もかなりすっきりと読むことができるようになるのである。


ただしまだ問題は残っている。一つは「駿州ニも」の「ニも」であり、もう一つは「本意を致す」という言葉である。


まずは「本意を致す」について。「本意を遂げる」という言葉はよく聞くけれども「本意を致す」という言葉は聞いたことがない。そもそもこれは俺の解釈の場合のみならず村岡教授の解釈の場合でも問題となるところである。


「"致本意"」で検索したところでは全く用法がないわけではない。たとえば

御尊札拝披、畏入候、如毎年五種、被懸御意候、目出珍重不過之候、越・甲当無二被相談儀、老拙父子馳走致之候、一度源太為致本意、於武州、御用等申合度、念望迄候、態御樽銭、如嘉例進之候、乏憚入迄候、恐々謹言

太田資正 史料整理 “年次未詳” 四月編|はみ唐さんの空手、コンサル、親バカ日記
という太田資正の書状がある。


ただ珍しいことには違いないだろう。関東方面で使われていたのだろうか?



次に「駿州ニも」。「にも」というからには、それに該当する何かがなければならない。村岡教授は、織田が岡崎城を確保した。今川義元においても今橋を「本意」にしたということで、織田が三河を攻撃して、今川「も」三河の今川を攻撃したという意味での「にも」であると解釈しているように思われる。ただし、それなら「も」であって「にも」ではないように思うけれど。


この「ニも」の解釈は難しい。


自信はないけれど俺の考えでは

天文6年には今橋城を占拠した牧野成敏(田兵衛尉)を退けて宣成が城主となった。牧野成敏は牛久保城主牧野氏の一族で正岡城主(豊川市正岡)であったが、松平清康の東征に協力した功で今橋城番となり、天文4年(1535年)の森山崩れで松平清康が急死したのを機に占拠しそのまま城主になっていた。これを成敏配下であった宣成の同族・戸田宗兵衛尉(重光)・戸田新次郎(氏輝)の協力を得て成敏を退けて城を奪い戸田宣成が城主になったという。

戸田宣成 - Wikipedia
とあり、まず戸田宣成は牧野成敏から城を奪った。牧野成敏は岡崎城主の松平清康に従っていた。清康の死後に今橋城を占拠したとはいえ岡崎との関係が切れたというわけではないと思われ。それに対して戸田宣成が今橋城を奪ったのだから、天文4年に「岡崎之城」に対して宣成は「本意」を致したということができるのではなかろうか?


そして宣成は天文9年に広忠が城主になって以来「岡崎之城自其国就相押候駿州」(岡崎の城を其の国より既に宰領している駿州)にも「本意」を致したということではないだろうか?


いや自信ないんだけれど。


なお、この場合、織田信秀北条氏康に書状で懇切に説明した「近年」の三河情勢は、天文9年以降の三河情勢である可能性があると思われるのである。