北条氏康書状について(その9)

仍三州之儀、駿州無相談、去年向彼国之起軍、安城者要害則時ニ被破破之由候、毎度御戦功、奇特候、

について。村岡幹生教授は「無相談」が本当は「被相談」なのは明白だとし、織田信秀今川義元と相談して安城の城を破ったと解釈している。なお「相談」とは

今川による今橋支配(城代配置開始を受けて織田・今川の間で交渉が持たれ、両者による三河分割の線引きについて一定の合意が成立したことを意味する。すなわち、今川による今橋支配に釣り合うものとして織田が岡崎を支配する合意があったという。もっとも、以上は織田の言い分である。

ということだそうだ。想像力が豊かというか何というか…


「無相談」か「被相談」かという問題以前に、俺は


(その1)「今川による今橋支配」とは氏康文書における「駿州ニも今橋被致本意候」の解釈からくるものだろうけれども、俺はそれはそういう意味ではない可能性があると考えていること(後で書く)。


(その2)既に書いたように「仍」で始まる「駿州無相談」が含まれる文と、「殊」で始まる「駿州ニも今橋被致本意候」が含まれる文は、全く関係が無いわけではないだろうが直接の関係は無いと考えられ、安易に結びつけてはならないと考えていること。


(その3)信秀が岡崎城近くまで迫ったことは他の史料にも見られることではあるけれど、この史料における「彼国被相詰之由」は既に書いたように、信秀が三河を侵略するという意味ではない可能性があること。よって俺には「織田が岡崎を支配する合意」なるものはこの文書から読み取れないこと。


以上の理由により村岡教授の主張に全く同意することができないのである。まあ可能性としてはゼロとはいえないけれど、推測の上に推測を重ねたもので、根拠が非常に薄弱ですよねとしか思えないのだ。よっと仮に「被相談」と読むのが正しいとしても、そこまでの解釈はあまりにも飛躍しすぎでいるとしか思えないのである(さらに言えばその推測の上に推測を重ねたものが仮に正しかったとしても、それでもなお疑念の余地が残るものでもある)。


※ なお村岡教授は

もっとも以上は織田の言い分である。ただ、三河支配をめぐり両者間に交渉が存在した可能性はある。菩提心院日覚書状には、織田による岡崎攻落に先立ち、「鵜殿はかねて織田と今川の力関係を見計らって、両者との外交でいろいろ上手に立回っておいでであった」との記述がみられ、かかる外交交渉存在の可能性を示唆する。

と主張している。しかしながら既に書いたように

尾と駿と間を見あはせ候て、種々上手をせられ候

とは『尾張駿河三河を挟んで様々「上手」をしている』という意味でしょう。「上手」とは「巧みな」という意味で「巧みな戦争」とか「巧みな駆け引き」とかのことであり、両者とも「上手」なので拮抗していて勝敗が決しないと思われたところ「覚悟外ニ東国はいくんニ成候」ということになったという意味であろう(よって「覚悟の外」とは信秀が勝つのが意外だったということではなくて、勝敗が決するのが意外だったということだと思われ)。


そもそもこの鵜殿氏が誰なのかはわからないけれど、鵜殿長持の室は今川義元の妹で、嫡子の長照はその子供。そして長持の娘は曳馬(浜松)城主飯尾乗連の室。普通に考えて織田と今川の間で立ちまわったというより、今川べったりである。


このように、これも既に書いたことだけれど、村岡教授と俺の解釈はことごとく異なっているのである、