北条氏康書状について(その12)再考

村岡幹夫教授の論文の後の方に

したがって、天文十六年九月の織田の三河侵攻以前においては、安城城は依然として織田が維持しつつも、松平広忠方の反攻にさらされていたと想定するのが妥当である。北条氏康文書にいう、「安城は要害、即時ニ破らる」とは、織田がそうした危機状況を突破したことを指していると考えてよい。

と書いてあった。「天文十六年九月の織田の三河侵攻」については同意しかねるけれど、それ以外については俺も同意見。


しかし、だったらなんで、前の方で

 この史料から確認できるのは、天文十六年に織田が三河で起こした軍事行動以前において、松平ないしは前年以降三河に侵入していた今川の軍勢が、織田の支配する安城城を危うくしていたか、ややもすれば安城城を攻落していたという点である。天文十二年以前にいったん織田が安城城を奪ったが、その後天文十六年までに形勢が逆転し前記の事態が生じたと考えることも可能である。

なんてことを書いているのだろうか?


こっちには「ややもすれば安城城を攻落していたという点」が「この史料から確認できる」と書いているではないか。


意味不明。


(追記)
安城城を奪われたが「即時に」奪い返したということを言いたいのだろうか?どうもそれっぽい感じがする。しかしわかりにくい。そういう意味なのだとしたら上で「同意見」と書いたのはもちろん撤回。