北条氏康書状について(その23)

俺は戸田氏について良くしらないので、これから勉強しなければならない。


とりあえず『新編岡崎市史 中世』より

 今川氏による三河直接支配は天文一五(一五四六)年からである。それ以前にあっては、今川市は三河国人衆とゆるやかな主従関係を結んでいたとみられる。近世の変改によって真相はわかりにくいものの、松平広忠との関係がその象徴であろう。

(中略)

 もっともこれは西三河の場合であり、東三河ではもう少し強い関係であったらしい。奥平氏今川氏親から所領宛行や感状を受けており(黒屋直房『中津藩史』)、牧野氏も「東三河ノ司領」の地位を今川氏から認められたという(「牛久保密談記」)。

(中略)

 それが一五四〇年代半ばに一変し、三河全域が今川の領国化する。その契機は天文一五年一〇月の吉田城陥落である。遠江犬居城主天野安芸守景泰を将とする今川勢は松平氏からの援兵と共に吉田城を攻撃し、城主戸田金七郎宣成を討死させ城を奪取した。戸田氏は当時本城田原と吉田・二連木城を擁していたが、一六世紀初頭以来今川氏に反抗した形跡はなく、この時期に攻撃される理由は見当らない。あるいは戸田一族に分裂がおこり、織田氏に通じる者があらわれたのであろうか。吉田に隣接する二連木の戸田宣光は攻撃対象とされていないのは、一族分裂を示唆する。吉田城入手によって今川氏の三河直接支配の拠点ができたといえる。

戸田氏は「一六世紀初頭以来今川氏に反抗した形跡はなく、この時期に攻撃される理由は見当らない」とある。


しかし、正当な理由もないのに今橋城(吉田城)を攻撃したのだとしたら他の東三河の武将が動揺するであろう。今橋を奪うことによるメリットと、東三河の武将の信頼を失うデメリットを秤にかけた場合、今橋を選ぶだろうかというのは大いに疑問。


戸田宣成には攻撃されるだけの理由があったと考えるのが自然ではなかろうか?


なお、今橋攻撃には松平氏からの援兵があったという。これは全くの初耳で村岡幹夫教授の論文では触れられていない。村岡教授の説では

今川による今橋支配(城代配置)開始を受けて織田・今川の間で交渉が持たれ、両者による三河分割の線引きについて一定の合意が成立したことを意味する。すなわち、今川による今橋支配に釣り合うものとして織田が岡崎を支配する合意があったという。もっとも以上は織田の言い分である。

「織田の言い分」なんだとしても「織田が岡崎を支配する合意」のきっかけとなる「今川による今橋支配」に松平氏からの援兵があったというのは何とも不思議な話である。もっとも「松平氏」とあるだけで「広忠」とは書いてないということかもしれないが。


しかしもちろん俺は村岡教授の説に全く同意していないのである。


(つづく)