北条氏康書状について(その24)

殊岡崎之城自其国就相押候、駿州ニも今橋被致本意候、其以後、萬其国相違之刷候哉、因茲、彼国被相詰之由承候、無余儀題目候、

について。

岡崎之城自其国就相押候、駿州ニも今橋被致本意候

とは、岡崎の城(松平広忠)を其の国(駿府今川義元政府)より既に宰領している駿州(今川義元)にも戸田宣成が「本意」を致した
という意味であろうということは既に書いた。次の

其以後、萬其国相違之刷候哉、

の「相違之刷」の意味がわからないことも既に書いた。しかし「其の国」は駿河今川義元政府のことであり、そこに何らかの「相違」が生じたと織田信秀が推測していると解釈すべきだろう。そして、それが原因で

因茲、彼国被相詰之由承候、

「彼国」(三州の松平広忠政府)が詰んでしまったということだろう。


つまり、戸田宣成が今川義元の意に沿わない行動をしているために、義元の計画に支障が生じて、その結果として松平広忠が詰んだということであろう。


それが具体的にどんなことかといえば、「松平広忠が詰んだ」というのは今川からの支援が得られなくなったということではないかと思う。


義元は広忠を支援していた。ところが天正16年に広忠が支援を乞うたときには嫡男の竹千代(家康)を人質とすることを要求した。それはなぜか?おそらく多くの人が今川が三河支配に本格的に取り組むことになったからだと考えているのではないかと思う。それは間違いではないだろうけれども、文脈としてはまず義元が広忠を支援することに消極的になったということがあったのではないだろうか?広忠としてはそれでは困る。そこでどうしても支援してほしいと望んだ。そこで義元は条件をつけた。そういうことではないだろうか?


では、なぜ義元が広忠の支援に消極的になったかというと、それがまさに戸田宣成が原因ということではないだろうか?義元が広忠を支援したのはもちろんボランティアではない。ではどんな意図があったかと考えると、それは松平広忠を通じた三河の間接的な支配だったのではなかろうか?


ところが広忠は思っていたよりも頼りなかった。三河国内で戸田氏を制御することができなかった。東三河において広忠に従わない独立した勢力がいることは隣国遠江の支配にいそしむ義元にとっては懸念材料だった。しかも西三河には織田信秀の脅威がある。織田の進出を防ぐために広忠を支援していたけれども、東三河を制御することのできない広忠を支援することのメリットが感じられなくなってきたのではないだろうか?。広忠が強大だったら義元の支援が必要なくなるので、それはそれで困るけれど、それにしてもあまりにも不甲斐ないと考えたのではないだろうか?そして義元は広忠への支援に消極的になっていき、広忠は詰んでしまった。氏康書状に書かれていることはそういうことではないだろうか?


その後、義元は遠江支配に一応片が付いて、三河への積極介入に転じることになった。今橋城を攻めたのはその端緒である。そして広忠嫡男竹千代を人質にすることを求め、三河をより直接的に支配する方針を取る。これらはこの書状が書かれるよりも前に起きたことではある。しかし書状ではそこまでのことは書かれていないのではないだろうか?信秀が氏康に情報を伝えなかったか、あるいは信秀自身が正確な三河情報をまだ得ていなかったということではないだろうか?


ところで松平広忠は天文14年に水野忠政の娘で家康の生母である於大の方と離縁して、戸田氏の宗主で田原城主の戸田康光の娘真喜姫と結婚した。これも戸田氏を制御するのが目的ではないだろうか?義元の意向があった可能性もあろう。また於大の方と離縁した理由は水野忠政が織田と通じたということだけれど、もしかしたらそういう理由よりも戸田氏と関係を持つことが何よりも優先されたのかもしれない。あるいはこれも義元の意向があったかもしれない。今川の支援を得るためにはどうしても戸田氏を制御する必要があったのではないか?


もっとも俺は当時の東三河について詳しいわけではない。これから勉強しなければならない。だからこれはあくまで暫定敵な仮説。今後考えを変えるかもしれない。ただし「今橋被致本意候」は学者が主張する今川が今橋を攻めたという意味ではなく、今橋(戸田宣成)が今川義元に対して「本意」を致したという意味だということについては、ほぼ確実であろうと考えているる。


(一応おしまい)