北条氏康書状について(その12)

引き続き

仍三州之儀、駿州無相談、去年向彼国之起軍、安城者要害則時ニ被破破之由候、毎度御戦功、奇特候、

去年向彼国之起軍

について。


「向彼国之起軍」を村岡幹夫氏は

彼の国に向け軍(いくさ)を起こされ

と読み下している。俺は「之起軍」は「軍を起こされ」と読めるのか?というのが疑問だった。少なくとも俺にはそうは読めない。でもそれは俺がド素人だから知らないだけであってプロがそう読んでいるのだから読めるんだろうと思っていた。


でも違った。そうではなくて、ここもまた「向彼国之起軍」説と「向彼国被起軍」説があるのだった。そりゃ「向彼国被起軍」なら「軍を起こされ」だろう。


川戦:安城合戦編⑪漢字パズルⅠ(安城市史における「被相談」について)
によれば「之」説なのは「戦国遺文」で、「被」説は「安城市史」と「小田原市史」。「被」説の方が優勢だが「古証文」の文字を見ると、氏康文書で使われている他の「被」の文字とは明らかに異なっている。これを「被」と確定できるかといえばかなり怪しい。むしろ個人的には違う可能性の方が高いように思われる。


で、これが「之」なのか「被」なのかで意味は全く異なってくる


「向彼国被起軍」=「彼の国に向け軍を起こされ」だと、織田信秀が「彼の国=三河」に向けて軍を起こしたということになる。


だが、「向彼国之起軍」なら「彼の国の起軍に向かい」と読め、三河松平広忠の起軍に向かったという意味となり、信秀の三河侵略を意味する上の解釈とは逆に信秀は防衛戦争を行ったことになる


※ なお「起軍」とは中国語の辞書では「出兵」のこと
⇒起軍 - 教育百科


ところで「向彼国被起軍(彼の国に向け軍を起こされ)」と読んだ場合には、信秀は安城を攻めてそれを破ったことになる。一方「向彼国之起軍(彼の国の起軍に向かい)」と読んだ場合には安城は既に信秀の手に落ちていてそれを守ったということになる。


つま「去年」の時点で安城は誰が支配していたかということが問題になる。


これについて平野明夫氏は『三河松平一族』で「向彼国被起軍」説を採用して

織田信秀による安城城攻略は、一般には天文九年のこととされている。ところが、(天文)十七年三月十一日付けで北条氏康から織田信秀へ出された書状(「古証文」)には、「三河のことは駿河今川氏に相談せず、去年(天文十六年)三河国へ向けて軍を進められ、安城の要害を即時に破られたということを聞きました」という文がある。

としている。すなわち安城城が天文9年に信秀のものとなったという通説が氏康文書により否定され、安城城は天文16年に攻略されたということを主張している。また『信長公記』によれば小豆坂合戦では安城城を信秀が抱えているので、天文11年にあったとされる小豆坂合戦はなかったとする。


一方、村岡幹夫氏によれば、

断片的な同時代史料が示す状況証拠・江戸時代成立史料を総合すれば、天文十二年までには織田が安城城を奪ったことはほぼ確実である(『新編安城市史1通史編 原始・古代・中世』安城市発行、二〇〇七年

とする。しかしこれでは天文16年に信秀が安城を攻略したという解釈と矛盾してしまう。そこをどう解決したかというと

天文十二年以前にいったん織田が安城城を奪ったが、その後天文十六年までに形勢が逆転し前記の事態が生じたと考えることも可能である。

として、天文12年以前に織田が安城城を奪ったことと、天文16年に織田が安城城を奪ったことを両立させようとしている。


しかし、そんなややこしい解釈をしなくても「向彼国之起軍」説を採用すれば、織田はずっと安城を支配していたことになるのであって、どうして村岡氏がそうしなかったのか理解しかねるのである。推測するに村岡氏にとってはこれも「被」と読むのが「明白」であって、「之」とは読めないということか、あるいは安城城を奪った勢いで岡崎城をも降伏させたという自説の補強のためであるとか、そんなところだろう。


俺は「向彼国之起軍」の方が正しいのではないかと思う。


※ なお「彼国」であるが、これは三河という地域というよりも「駿州」「三州」が今川義元松平広忠(を主とする集団「家」)を指すと考えられるのと同じく、これも松平広忠(家)を指すと考えるべきではなかろうか?