北条氏康書状について(その11)

仍三州之儀、駿州無相談、去年向彼国之起軍、安城者要害則時ニ被破破之由候、毎度御戦功、奇特候、

去年向彼国之起軍

について。


「去年」とはいつのことか?


平野明夫氏の『三河松平一族』(新人物往来社)によれば

横山住雄氏は、「去年」を文字通り解釈すると天文十六年ながら、「去る年」と見れば過去のことで、先年というような意味であるから天文九年でも良いことになるとし、信秀も外交上の駆け引きで、去年という表現をあえて用いたかもしれないとする(『織田信長の系譜-信秀の生涯を追って-』〈教育出版文化教会、平成五年〉)。しかし、文字通りに解釈するのが、最も素直なことはいうまでもない。

と「去年=天文16年」としている。村岡幹生氏も同じく天文16年としている。


しかし村岡氏はこの「織田信秀岡崎攻落考証」の論文の註で『松平記』の天文16年条にある「片目八弥」の記事について「去年」とあるのを

『松平記』は渡河原の合戦記事の直後に、「去年」のこととしてこの事件を述べている。新行紀一氏は、この「去年」を天文十五年のことと解している(『新編岡崎市史2』新編岡崎市史編さん委員会発行、一九八九年、新行氏執筆七一〇ページ)。この事件では信孝がその場にいて、片目八弥を突き殺したとあり、天文十五年であるはずがない。この「去年」はアバウトに「去んぬる年」の意味である。


横山住雄氏は「去年」は「去る年」(先年)と読めるという。
平野明夫氏は「去年」を文字通りに解釈するのが最も素直だという。
村岡幹生氏も平野氏と同じく「去年」を昨年のこととし天文16年だとするが、一方『松平記』の「去年」は「去んぬる年」だという。


頭がこんがらがってくる。もちろん「去年」が昨年のことなのか先年のことなのかは、その他の状況も考慮した上でそういっているのだろうけれど、実のところ「その他の状況」というのも推測にすぎない。逆に言えば自分の考えた「その他の状況」に都合の良いように「去年」を解釈しているだけだともいえよう。


たとえば平野氏の場合、天文11年のいわゆる第一次小豆坂合戦は虚構だと考えている。そこで信秀が安城城を攻略したのはそれ以降でなければならない。「去年」が昨年のことだとすればこれを補強することになる。村岡氏の場合は「日覚書状」が書かれたのが天文16年で、それと氏康書状を合致させるためには「去年」が昨年でなければならないのである。


俺は氏康書状に

近年者遠路故、不申通候処、懇切ニ示給候、

とあるからには、信秀は氏康にその「近年」の情報を知らせたのであろうから「去年」が「去る年」の可能性は十分にあると思う。しかしもちろん昨年の可能性もある。要するにわからないとしか言いようがないと思う。では実際はいつのことなのかといえば、それを決めるにはよほど確かな根拠がなければならないであろう。俺は平野氏や村岡氏が「去年」を天文16年とする根拠はそれほど確かなものではないと思う。