北条氏康書状について(その4)

以上の考察から織田信秀尾張守護斯波氏(または守護代織田大和守家)の指示により、北条氏康に使者を派遣したのだと俺は思う。もちろんそれは形式的なことであって、実際は信秀自身の目的のために上司の命令という形にして使者を派遣した可能性はある(そうでない可能性もある)。


その目的は「駿州此方間之義」すなわち、今川の北条の関係について質問することであった。短文バージョンでは

貴札拝見、本望之至候、近年者、遠路故不申入候、背本意存候、抑駿州此方間之義、預御尋候、先年雖遂一和候、自彼国疑心無止候、委細者、御使可申入候条、令省略候、可得御意候、恐々謹言、

と、氏康はその「上司」の質問に対する答えだけを書いている。一方長文バージョンでは信秀の武功を賞賛するなどしており、これらは「上司」の質問とは直接関係のない事柄であり、つまり長文バージョンは正真正銘信秀のために書かれたものであるといえよう。


この時点で俺の解釈は既に村岡幹生教授の解釈(長文バージョンは発給されなかった。短文バージョンも信秀に届けられなかった可能性がある)とはかけ離れたものであり、当然のことながらそれ以降の解釈も大いに異なってくるのである。


村岡教授は長文バージョンが発給されなかった理由として、この文書は

あきらかに、信秀が予定している近々の三河侵攻に対する明白な支持表明

であり、

こうした明白な支持表明を与えることが、後日において織田への負い目、あるいは、これを今川が知る事態になった際には今川への負い目となることが危惧され

たからだとする。しかし、俺の考えではこの書状は実際に信秀に届けられたものであるので、全くそんなことはなかったと思うのである。


もっとも、そもそも氏康が「信秀が予定している近々の三河侵攻に対する明白な支持表明」をしているのかといえば、俺にはそんなふうには読み取れないのである。


この際言わせてもらうが、この部分に限らず俺の解釈は村岡教授の解釈とことごとく異なっているのである。