北条氏康書状について(その5)

仍三州之儀、駿州無相談、去年向彼国之起軍、安城者要害則時ニ被破破之由候、毎度御戦功、奇特候、殊岡崎之城自其国就相押候、駿州ニも今橋被致本意候、其以後、萬其国相違之刷候哉、因茲、彼国被相詰之由承候、無余儀題目候、就中、駿州此方間之儀、預御尋候、近年雖遂一和候、自彼国疑心無止候間、迷惑候、

北条氏康文書の解読は難しい。現に学舎の間でも解釈が大いに異なっている。


でも、このうち「因茲、彼国被相詰之由承候、無余儀題目候、」と「駿州此方間之儀、預御尋候、近年雖遂一和候、自彼国疑心無止候間、迷惑候、」についての解釈は比較的簡単なのではないかと思う。そう「俺は」思うのだけど…


このうち

駿州此方間之儀、預御尋候、近年雖遂一和候、自彼国疑心無止候間、迷惑候、

について俺が現代語訳をするなら

駿州(今川)と此方(北条)の間のことを(織田が手紙で)お尋ねになられました。近年和平を遂げましたが、彼の国(駿府)よりの疑いが止むことが無いので迷惑(困って)おります。

ということであろう。イスラエルパレスチナ自治政府、あるいはロシアとウクライナなどが停戦合意したあとも疑心が止まないといったことと同様だろう。


それ以外の解釈がありえようか?


ところが村岡幹生教授によれば

すなわち、信秀があわよくば織田・北条の同時作戦による今川挟み撃ちに期待をかけたのに対し、氏康が「和睦後も今川が当方に対し挑発的でたいそう困っている。(すなわち、当方は今川との和睦を第一義としている。みずから積極的に今川と一戦を構える気はない。)」と応じたもの(織田からの打診に対する婉曲な拒絶)である。

ということになる。


そんな解釈ありえるだろうか?


そもそも「織田からの打診」なるものは、文書には何一つ書かれていないので、村岡教授の想像にすぎない。織田と北条は「近年者遠路故、不申通候処」と疎遠な関係だったのに、いきなりそんな打診をするだろうか?俺には将来的な布石を打っただけのように思える。


したがって、この時点でこの解釈はありえないように思うけれど、仮に村岡教授の仮説を採用したとしても、その打診に対する拒絶の返事が「自彼国疑心無止候間、迷惑候、(今川が当方に対し挑発的でたいそう困っている)」というのは、どう考えても不自然ではないか?


「自彼国疑心無止候間、迷惑候、」とは「北条は今川との和議を破るつもりがないのに今川が疑っているので困っている」という意味だ。だから「当方は今川との和睦を第一義としている。みずから積極的に今川と一戦を構える気はない。)」というのはそれはそうだろう。ただし、織田方に伝えたのは「北条側がそう考えているのに今川が疑っているので困っている」ということだ。


氏康が織田の「今川挟み撃ち」の打診を拒絶するときに、「自彼国疑心無止候間、迷惑候、」などと、一応和議はしてるけれど上手くいっていないということを暴露する必要があろうか?「当方は今川との和睦を第一義としている。みずから積極的に今川と一戦を構える気はない」ということを言いたいのなら、そのまんま言えばいいだけの話だ。


教授は「婉曲」などと書いているけれど、これはあまりにも「婉曲」すぎるではないか。


以上の理由により、教授の解釈はあまりにも無理がありすぎるように思える。いくらなんでもこんな解釈が可能ならば、もう何でもありになってしまうのではないだろうか?