北条氏康書状について(その2)

天文17年3月日付の北条氏康織田信秀宛文書は2種類ある。

北条氏康、織田弾正忠の軍功を確認し今川氏との関係を伝える(歴探)
北条氏康、織田弾正忠の質問に答え今川氏との関係を伝える(歴探)
後者は北条と今川の関係についての部分だけを書いた簡潔なもの。以下、前者を「長文バージョン」後者を「短文バージョン」とする。


村岡幹生教授の論文によれば、教授は

同一差出人の、文意が重複している同一日付の両文書が、ともに実際に発給されていることがありえない

という理由により、『新編安城市史 5』で長文バージョンは「後代に改作されたものと推定」していたそうだ。


だがこの論文では「この史料批判は誤りであった」として、両文書は同一の場所で採録されたものと想定すべきであり、北条氏のもとに伝来した控えであったとする。そして、まず短文バージョンが作成され、次に長文バージョンが作成されたものの、発給されなかったという。また短文バージョンも信秀の元に届けられなった可能性があるという。ゆえに文書に書かれている三河情勢は同時代の史実を反映したものだから価値があるというのが村岡教授の新たな主張。


「両文書は同一の場所で採録された」というのはおそらくそうだろう。しかしながらそれが北条氏のもとに伝来したのかといえば、そうではなくて両文書とも織田氏のもとに伝来した可能性もあるではないか。


いや、それは村岡教授にしてみればありえない話である。なぜなら

同一差出人の、文意が重複している同一日付の両文書が、ともに実際に発給されていることがありえない

のだから。しかし俺はまさにそこが疑問なのだ。本当にそれは「ありえない」ことなのか?


どうして「ありえない」と言い切ることができるのだろうか?当時は「同一差出人の、文意が重複している同一日付」の文書を出してはいけないというルールがあったのだろうか?そういうルールがあってそれを素人の俺が知らないだけだというのなら、俺のこの疑問は間違っていることになる。


しかし、単に村岡教授の常識として「同一差出人の、文意が重複している同一日付」の文書を出すなんて「ありえない」と考えているだけならば、それほど確かなものではないのではないか?


ところで、オタクは「保存用、観賞用、布教用」と同じ商品を三つ買うという話がある。ジョークであって実際はそんなことはないと言うけれど、金があればそうしたい気持ちは俺にもある。で、問題は「布教用」。自分が見るためではなく他人に見せるために買うということでしょう。


何でいきなりこんなことを書いたかというと、「同一差出人の、文意が重複している同一日付」の文書が「同一の目的」で出されたとは限らないではないか、ということ。


すなわち一通は「信秀用」、もう一通は「他の人用」だった可能性があるのではないかということ。二つの文書はどちらも織田信秀宛の文書だ。だが信秀宛だからといって、それが信秀が読むためのものだとは必ずしも言えないのではないか?「私信秀のところにこんな文書が届きました」と「他の人」に見せることを前提とした文書というのもあるのではないか?


つまり何を言いたいかといえば、その「他の人」とは信秀の上位にいる者、すなわち守護代織田大和守(または守護斯波氏)であり、二通のうちの一通(短文バージョンだろう)は、彼または彼らに披露する目的で書かれたものではないのだろうかということ。


氏康文書(長文バージョン)には

抑自清須御使并預貴札候

とある。信秀の使者は「自清須御使」なのである。この「自清須御使」とは「清須の織田大和守(または守護斯波氏)のお使い」という意味であろう。


織田信秀は「清須」の指示(という形式)で北条氏康に使者を出し、氏康はその返事を書いたのだ。「清須」が欲したのは北条と今川の近況であろう(本当に欲していたのは信秀かもしれないが形式上はそうなる)。それに対して氏康は、使者は信秀が出したものだから宛名は信秀だが「清須」が読むことを前提とした返事を書いた。そしてもう一通、こっちは正真正銘信秀が読むためのものとして長文バージョンの手紙も出した。


そういう可能性はないのだろうか?


(追記7/23)
そもそも文書には「在判」とあるのだが。

1 古文書の写しなどで、原本のほうにはここに花押 (かおう) が書かれているということを示す語。ありはん。

ざいはん【在判】の意味 - 国語辞書 - goo辞書
村岡教授の説だと「草案」に花押を書いたということだろうか?まあ、そのあたりも説明しようと思えばできてしまうのかもしれないけれど…