「誰が書いたかではなく何を書いたか」問題

誰が書いたかではなく何を書いたかで考えたい - おうつしかえ
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「誰が書いたか」ってのはあんまりないかもしれないけれど「誰が言ったか」で検索すれば山ほど出てくる。特に目新しいこと書いてないのに何で人気になっているかよくわからない。ちなみに俺もこのお題で去年書いている。
「誰が言ったか」ではなく「何を言ったか」という問題
「誰が言ったか」ではなく「何を言ったか」という問題(その2)


でも、昨日俺は

これが専門家の定説に対して素人が異論を唱えているとかなら、(素人の方が正しいってことも十分ありえるが)まあ専門家の方が正しいんじゃないかと一応は考えられるかもしれないけれど、専門家の間でも解釈が異なっているのであるからして、そんなもんどう判断しろと言うんだって話。

北条氏康書状について
ということを書いたばっかりであり、なおかつ今日も「誰が書いたか」に関わる話を某所で見たので、もう一度考えてみる。



たとえば、俺が頭痛がして体がだるかったとする。そのことを聞いた知人が「そんなの疲れてるだけだって。おとなしくして一晩寝れば治るよ」と俺に言ったとする。でも不安なので俺は医者に診てもらったところ「疲労ですね。おとなしくして一晩寝れば治るでしょう」と言われたとする。


知人の言ったことと医者の言ったことは同じである。では知人が言っていたのにもかかわらず医者に診てもらった俺の行為は間違っていたのか?そんなことはない。知人は医学の素人で、医者はもちろん専門家だ。どっちの言うことを信用するかといえば医者の方にきまっている。「誰が言ったか」はとても重要なことなのだ。


それはなぜかといえば俺が医学の素人だからだ。素人だから人から言われたことの当否を専門知識で判断することができないのだ。そういう場合は専門家か否かで判断する、つまり「誰が言ったか」で判断するのが最も適切な判断であろう。もし知人と医者の判断が異なる場合に、どっちの言っていることを信じるかといえば当然医者の方を信用する。その判断基準は「誰が言ったか」である。


ところで、知人と俺を見た医者の意見が異なっているので、俺は念のために別の医者に聞いたとする。その医者はそのときにどう判断するだろうか?基本は「医者がそう言っているのならそれが正しいでしょう」ということになるだろう。つまり「誰が言ったのか」で判断するだろう。しかし医者なんだから「念のために私が診てみましょう」ということになる可能性が高く、診察した結果として知人と医者のどちらが正しかったのかを判断することになるだろう。つまり「何を言ったのか」が判断されることになる。彼にそれができるのは彼が専門家だからだ。


すなわち判断できる能力があれば「誰が言ったか」ではなくて「何を言ったか」で判断することができるってことだ。


ただしこれは比較的単純なケースである。


発見するのが困難な病気だとか、日本に症例がほとんどない病気とかなら別だが、そうでない場合は医者の診断が間違っていることはあまりないだろう。しかし世の中には専門家が正しいと主張していたとしても、実は正しくないことなんて山ほどあるだろう。特に実験などで確認することができない分野において。歴史学などまさにそれであろう。


その場合でも専門家が主張することを信用すべきだろう。特に自分で判断できない場合は。専門家は専門的な教育を受けて経験を積んでいるのだから。しかし、専門家の知識と経験を「1」としたとき、素人の知識と経験は「0」というわけではない。専門家と素人の間には超えられない壁があるわけではない。そして専門家も完璧なわけじゃない。いや完璧じゃないのは全ての分野に言えることだけれども、実験結果などは(真の絶対ではないけれど)絶対性を持っている。一方、たとえば歴史学では文献史料などが絶対性を持っているけれど、それだけで語れることは限られていて、推測で穴を埋めなければならない。しかもその文献史料ですら正しい解釈がなされているとは限らないし、タイムマシンで過去に行ってこの解釈で正しいのか確認することもできない。


もちろんそういう分野でも総合的に見れば専門家の方が正しい可能性の方が高い。でも専門家よりも素人の方が正しいということは十分ありえる。少なくとも素人が物理学の基礎理論を覆す可能性よりは遥かに高い。


であるからして「誰が言ったか」だけで判断するのは問題がある。とはいえ「誰が言ったか」が必要ないわけでもない。「何を言ったか」で判断できる部分は「何を言ったか」で判断すべきだが、判断できないのなら「誰が言ったか」で(暫定的に)判断するしかないだろう。つまりその人の持っている能力によって判断基準は異なるべしってこと。


で、これを逆に言えば「判断できる能力があるなら誰が言ったかで判断すべきでない」ということになる。これが実は「言うは易く行うは難し」だなあと思うのは、たとえば地球は自転していると科学者が言った場合、それはほぼ絶対的な真実なわけで、それに反する主張をしている人を「何を言ったか」という判断基準で批判することは簡単なことだけれども、歴史学者が主張しているそんな絶対性はなく問題点が多々あるものに対しても、それと同じ感覚で素人の異論を見下すようなことがままあるように思われる。


その場合、本人は素人だから見下しているのではない、つまり「誰が言ったか」で判断しているのではなくて、その主張には問題点があるのだ、つまり「何を言ったか」で判断しているのだというつもりなのかもしれないけれども、実のところ問題点があるのはその人が擁護する主張の方もそうなのであって、にもかかわらず素人の主張の問題点だけをあげつらうという、つまり無意識に「誰が言ったか」で判断しているケースというのが有り得るのだ。まあ人間だからそういうこともあるよねってことにしてもいいんだけど、俺自身が素人なのに専門家の主張を批判しまくってるので気になるのであった。