北条氏康書状について

村岡幹生教授の論文「織田信秀岡崎攻落考証」では「菩提心院日覚書状」だけではなくて「北条氏康書状」についてもかなりの文字数を費やして論じられている。


正直「日覚書状」から何が読み取れるかという問題だけでも相当な問題なのに「氏康書状」の考証までするのは広げすぎって思うんだけれど、タイトルが「織田信秀岡崎攻落考証」であるからして村岡教授の関心は「日覚書状」そのものではなく、その先のものに目を向けられているってことでしょう。


で「氏康書状」について。この文書については様々な解釈が主張され、主張している人は自分の解釈が正しいと思っているんだろうけれども、それを見ているこちら側としてはどれが正しいのか判断しかねる。


これが専門家の定説に対して素人が異論を唱えているとかなら、(素人の方が正しいってことも十分ありえるが)まあ専門家の方が正しいんじゃないかと一応は考えられるかもしれないけれど、専門家の間でも解釈が異なっているのであるからして、そんなもんどう判断しろと言うんだって話。


しかし俺は思うんだけれど、こんなに解釈が異なっているんだから、これはもう争点となっている部分だけじゃなくて、文書の一字一句全ての解釈を徹底的にやるべきなんじゃなかろうか?解釈が難しい部分だけではなくて、問題がないと考えられる部分も、もしかしたら重要な意味を持っているかもしれないではないか?


そういうのは論文にするには、あるいは書籍にするにはふさわしくないかもしれないけれど、今はネットがあるんだから、文字数とか気にしないで公表できるではないか。


なお俺はド素人だから「氏康文書」について意味不明のところが山ほどある。それは俺が無知だから理解できないのか、それとも専門家にとっても解釈が難しいところなのか、その点がさっぱりわからないのである。


たとえば前に書いたけれど「安城者要害則時ニ被破破之由候、毎度御戦功、奇特候」の「破破」って何で破が二度出てくるのかとか。巴々さんによると『幕府の学者も「破破」を読めずに頭を悩ませていたようです』とのこと。とりあえずこの問題を回避して文全体の意味を解釈することはできないことではないけれど、解釈が割れている現状ではこういうことまで徹底的に考えてみる必要があるのではないかと思うのだ。