後藤又兵衛の首(その2)

新たな情報を見つけたので、マスコミの報道を検証してみる。

NHKは

それによりますと、又兵衛の下で戦っていた武将、金万平右衛門が、ひん死となった又兵衛の首を、秀頼から又兵衛に与えられていた刀で落とし、秀頼に刀を返したと記されています。また、その際に首を持ち帰ることができなかったため、又兵衛の折れた旗を討ち死にの証拠として秀頼に差し出したなどと記されています。
大坂夏の陣で討ち死に 後藤又兵衛の最期を記す史料発見

「金万平右衛門」が「秀頼から又兵衛に与えられていた刀」で又兵衛の首を落としたとする。しかしながら新史料に金万が首を落としたとは全く書いてない。また刀を秀頼に返したのは長四郎という「児姓(小姓)」だと書かれている。


産経新聞

 又兵衛が討ち死にした際、金万らが秀頼から拝領した脇差し行光で首を討ったことや又兵衛の指物(刀)「かえり半月」の片折れを秀頼に差し上げたなどの記述が見られるという。
後藤又兵衛 討死」詳細に 秀頼へ報告、部下がメモ 大坂の陣

とし「金万ら」が首を討ったとする。しかしそのようなことは新史料に書かれていない。なおここに「かえり半月」とあるのも注目点だがそれはまた別の話。


山陽新聞

文書(横35センチ、縦27センチ)には、平右衛門が又兵衛の首を伊達隊に奪われないよう介錯(かいしゃく)し、秀頼公に報告した―などと、又兵衛の死の状況が13行にわたって具体的に書き残されている。
武将・後藤又兵衛の最期の記録 岡山の地侍記す、県立博物館で公開へ

とし、やはり「(金万)平右衛門」が介錯したとする。もちろんそんなことは史料に書かれていない。


次に時事通信

書き付けには、豊臣秀頼から拝領した脇差し「行光」で首を落とした様子や、討ち死にの証拠として、又兵衛の折れた「指し物」を小姓が秀頼の下に持参したことが書かれている。
又兵衛の首、秀頼拝領の刀で=豊臣方書き付け新発見―岡山

と、この記事は金万平右衛門が討ったとは書いてないけれども「行光」で首を落としたとする。しかしながら、史料には行光で討ったとも書いてないのである。というかそもそも史料には又兵衛が首を討つように指示したことは書かれているけれども、指示された小姓は「又兵衛印をあげ候義は罷りならず」とあるので首は取れなかったのであり、その後に又兵衛の首はどうなったのか(打たれたのか、つながったままなのかについて)は何も書いてないのである。



史料に書かれていないことを一社ならともかく複数の報道機関が報じているのは、記者が誤解したのではなくて、岡山県立博物館の説明がそのようなものだったからではないだろうか?これに関して、NHKは

調査に関わった、九州大学基幹教育院の福田千鶴教授は「秀頼からもらった大切な刀で最期の奉公を遂げたと言うことができ、又兵衛らの秀頼に対する思いとともに、秀頼が又兵衛を信頼していたことも読み取れる貴重な史料だ」としています

という福田千鶴氏のコメントも載せている。「秀頼からもらった大切な刀で最期の奉公を遂げた」というのは行光で自分の首を討たせたということだと受け取れる。ところが、
「後藤又兵衛討死之時」:新聞等の比較 - ATSUー歴女(おばさん?)のひとりごとー
というブログ記事によれば、毎日新聞の記事に

書付を見た福田千鶴・九州大教授(日本近世史)によると、又兵衛が配下の小姓の長四郎に秀頼拝領の脇差し「行光」を渡し、自分の首を落として秀頼に報告するよう指示した。しかし長四郎は実行できず、秀頼に行光を渡したと書かれているという。又兵衛はこの直後に配下の平右衛門に討たれたとみられる。

とあるという。これを読めば長四郎は行光で又兵衛の首を討ってないし、行光は秀頼に渡されたのだから、平右衛門が討ったとしてもその刀は行光ではない。ではNHKの「秀頼からもらった大切な刀で最期の奉公を遂げた」とは何なのだろうか?同一人物のコメントなのに矛盾しているように思われる。首を落とすように指示したことが「最期の奉公」の可能性も考えたけど「刀で〜遂げた」とあるからそう解釈するのは苦しい。謎。

(1/19追記)「福田千鶴」氏によれば、NHK記事の発言は捏造とのこと。


なお「又兵衛はこの直後に配下の平右衛門に討たれたとみられる」というのは文脈からみて福田氏のコメントではないと思われるが、誰の考えなのかは不明。おそらくは岡山県立博物館(内池英樹氏?)の説明であろう。とすれば上のNHK・産経・山陽新聞の記事とも符合する。すなわち金万平右衛門が首を討ったというのは新出史料にそう書いてあるのではなくて、既出史料と総合して判断するとそう考えられるということなのだろうと思われる(その解釈が妥当かはともかく)。


以上から推測すると、金万平右衛門が又兵衛の首を討ったというのは岡山県立博物館の説明だと考えられる。また又兵衛の首を秀頼から拝領した「行光」で討ったとするのも

 今回発見された資料、書付「後藤又兵衛討死之時(ごとうまたべえうちじにのとき)」は、又兵衛の首を討った脇差が、又兵衛が豊臣秀頼から拝領したものであったこと、又兵衛最後の様子を秀頼に報告したことなどが記されており、又兵衛のもとで戦った金万平右衛門(こんま へいえもん)、もしくはその子孫が書き記したものと考えられ、平右衛門の子孫宅に残されていました。

岡山県立博物館が説明しているので、それをそのまま報じたものであろう。


問題はなぜ岡山県立博物館がそう解釈したのか?だが、これがさっぱりわからない。既に書いたように調査に関わった福田千鶴氏のコメントが、NHKと毎日新聞では矛盾しているように感じられ混沌としている。



あと、ネット記事では確認できなかったけれど、「後藤又兵衛討死之時」:新聞等の比較 - ATSUー歴女(おばさん?)のひとりごとーによれば、読売新聞の記事に

大阪城天守閣大阪市)の北川央館長は「介錯した人物は特定できない・・・。」

とあるそうで、朝日新聞大阪城天守閣跡部信・主任学芸員に取材してるのと同様、岡山県立博物館以外にも取材していたようだ。