後藤又兵衛の首(その5)

日曜日に体調悪化の兆しがあって火曜日には40度超えて意識朦朧になった。立ち上がって歩こうとしても意志に反して変な方向に向かって数歩で倒れこむ始末。未だに平熱より高いけれど少し落ち着いてきたので久々にネットチェックしようとしたらどんでもないことに。


最初の記事「後藤又兵衛の首」のコメント欄に「福田千鶴」氏がコメントを寄せられた。


コメントへの返信にも少し書いたけれど、少し詳しく書けば当初俺は(「史料解釈を」という意味ではなくて、取材内容を正しく報道しているだろうという意味で)NHKの報道を疑っていなかった。以下の福田氏に関わる部分も歪曲・捏造しているとは思わなかった。

 調査に関わった、九州大学基幹教育院の福田千鶴教授は「秀頼からもらった大切な刀で最期の奉公を遂げたと言うことができ、又兵衛らの秀頼に対する思いとともに、秀頼が又兵衛を信頼していたことも読み取れる貴重な史料だ」としています

確かに知らされている情報のみでは、秀頼拝領の刀によって又兵衛の首が討たれたとは普通読み取れない。しかし専門家がこのような判断をしているのなら、そこにはそう判断するだけの理由があったのだという可能性も十分ある。何しろこっちがわかっている情報はごく僅かなものなのであり、それでもって「(何かが)間違ってる」だと判断する自信はない。そう思えたとしてもそれは自分の方に問題があるからだったということは経験上いくらでもある。


しかるに、その時点では未読だった毎日新聞の記事には

書付を見た福田千鶴・九州大教授(日本近世史)によると、又兵衛が配下の小姓の長四郎に秀頼拝領の脇差し「行光」を渡し、自分の首を落として秀頼に報告するよう指示した。しかし長四郎は実行できず、秀頼に行光を渡したと書かれているという。又兵衛はこの直後に配下の平右衛門に討たれたとみられる。

とあり、NHKの「秀頼からもらった大切な刀で最期の奉公を遂げた」という話と矛盾する。実は矛盾していないという可能性も考えたが無理がある。


さらに、岡山県立博物館がどうして「金万平右衛門が秀頼拝領の行光の脇差で又兵衛の首を討った」という解釈をしたのかということを考えたときに、当初は史料に金万平右衛門が討ったとは書いてないのだから、他の史料と総合してそう判断したのだろうと思った。ところがどうやらそうではない。

一、後藤又兵衛討ち死の時、秀頼公より拝領の脇指し−行光−、是(これ)にて又兵衛首を討ち、

これを「秀頼公より拝領の脇指し−行光−で(私、金万平右衛門が)又兵衛の首を討ち」と解釈しているのではないかと思えてきた(これは未だに確定事項ではないけれど)。だとすれば毎日新聞記事における福田千鶴氏の説明と完全に矛盾する。


すなわち岡山県立博物館と福田千鶴氏の意見は割れていたということになる。


というところまでは推理は進んでいた。
後藤又兵衛の首(その4)


もちろん、そこには未確定事項が多々あったわけだが。