雑記:もう一人の「次郎法師」

大河ドラマ井伊直虎に決まったというニュースが流れて以降「女城主は他にもいるよね」という話題をしばしば目にした。割と有名なのは立花宗茂の妻とか、岩村城のおつやの方とか。俺が前々から関心があったのは曳馬城の飯尾豊前の妻で江戸時代には直虎(というか次郎法師)よりも遥かに有名だった女性。それはともかくそうした中に洞松院という女性もいた。けれどもこういうことに全く関心が無いというわけではないけれど、強い関心があるわけでもなく、そういう人もいるんだと思った程度。


で、昨日、次郎法師関連で「尼が還俗できない」というのは本当か?ということを調べたときに、また洞松院の名を目にした。でも尼でも還俗してるじゃんと思った程度。


で、さらに、あの本郷氏が直虎に首を突っ込んでることを知って、記事を見てみたら相変わらずで、

姫「え?どういうこと? 井伊の家では跡取りが『次郎』もしくは『法師』を名乗ることになっていて、その2つをくっつけて法名にした、とか説明されてるんじゃない?」
本郷「『井伊家伝記』ではそうなっているね。(以下略
井伊直虎の男説を追う!そもそも女説の根拠は?東大・本郷教授の「歴史キュレーション」 | BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)

などというわけのわからないことを言っている。「次郎」はともかく「法師」が井伊家の跡取りの名乗りなんて話はどこから出てきたんだ?


この先生が史料に載っているといっても信用してはいけない後藤又兵衛が腰を撃たれ歩行不能になったために部下に命じて首を打たせたと『難波戦記』シリーズに載っているなどと言っているが、『難波戦記』にそんなことは書いてない。戸川秀安が宇喜多秀家を守る責務があるからと殉死を断ったと『武将感状記』にあるというが、『武将感状記』にそんなことは書いてない(後に別の史料の類話にそういう話があるのを見つけたけど)。他にもあるけど略。


で、『井伊家伝記』のことを

姫「直虎が女性だといっている唯一の根拠ね。

とか

本郷「そうだね。だけど、彼女が井伊直虎と同一人物かどうかは、何の保証もない。それを説いているのは、もう一度言うけれど、『井伊家伝記』だけなんだ」

なんて書いているけど、もちろん『井伊家伝記』に「直虎」などという人物は登場しない


「直虎」を「次郎法師」と入れ替えて『井伊家伝記』が「次郎法師が女性だといっている唯一の根拠」かといえば、『寛政重修諸家譜』は?

直親と婚を約すといへども直満害せられ直親信濃国にはしり、数年にしてかへらざりしかば尼となり次郎法師と号す

と書かれてるはずだが。これは彦根の井伊氏が提出した資料に基づくもので、結局のところ『井伊家伝記』によるものだろうとは想像できるけれども。


で、一応確認をと思って検索したとき、勘違いして「寛政重修諸家譜」ではなく「寛永諸家系図伝 次郎法師」で検索してしまったのだが、そしたら「寛永諸家系図伝: 索引 - 90 ページ - Google ブック検索結果」というのがヒットして「次郎法師」とある。


そしたら次郎法師 赤松政則とある。


ウィキペディア赤松政則の記事見たら

改名 次郎法師丸(幼名)、政則
赤松政則 - Wikipedia

とある。へえそうなんだ。と思って記事読んでたら

継室:洞松院(細川勝元娘)

とある。どこかで見たことある名前だなと思ったら、最初に書いたように「女城主」の洞松院であった。

洞松院(とうしょういん、寛正元年(1460年)、2年(1461年)、もしくは4年(1463年) - 没年不詳)は、戦国時代の女性。細川勝元の娘。細川政元の異母姉[1]。赤松政則の妻(後室)。名は「めし」。「めし殿」「局(つぼね)殿」「赤松うばの局」などと呼ばれた。義子・赤松義村の後見人として赤松家を支えた女戦国大名
洞松院 - Wikipedia

ちなみに赤松義村も次郎、その子の晴政も次郎、その子の義祐も次郎、


何ですかね?次郎と女城主は相性いいんですかね?なお洞松院は出家してたのを還俗して赤松政則の後妻となった(出家した理由は醜女だったからとかいう説あり)。
(しかしこれはただの偶然か?『井伊家伝記』はこれに影響受けているなんて可能性は?まあ偶然なんだろうけど…)


それはともかく「赤松次郎法師」は出家名ではなくて幼名(らしい)。井伊の方の次郎法師も幼名ではないかというのは、
「井伊家伝記」の内容に対する疑問 - 井伊直虎 〜史実から謎を解く〜
でも指摘されている。織田信長が吉法師、孫の織田秀信は三法師だし、ありえないことではない。


ただし、これについては俺も別に思うところがあるんだけれど、それは今調査中。



(追記 20:03)
「法師」が井伊家の井伊家の跡取りの名乗りだというソースはこれっぽい。

許嫁であった直虎は龍潭寺で出家し、次郎法師(次郎と法師は井伊氏の二つの惣領名を繋ぎ合わせたもの)という出家名を名乗った[6]

井伊直虎 - Wikipedia
出典は龍潭寺のHPになっているが、そのようなことは書かれていない。元から無かったのか削除されたのかは不明。


想像するに『「井伊氏の惣領名の次郎」と「法師」を繋ぎ合わせたもの』といったようなことが書いてあったのを『「井伊氏の惣領名の次郎と法師」を繋ぎ合わせたもの』と誤読したものなのではないだろうか?