『真書太閤記』における秀吉の出自

豊臣秀吉の伝記に『真書太閤記』がある。

江戸後期の実録風読物。12編360巻。栗原柳庵編。講談の材となっていた太閤真顕記その他をまとめた、豊臣秀吉通俗的な一代記。

しんしょたいこうき【真書太閤記】の意味 - 国語辞書 - goo辞書


秀吉関係の書籍を見ると「俗書の類で信用できない」と良く書かれている。信用できないのは確かにそうかもしれないけれど、その一言で片付けられて、一体どんなことが書かれているのかはあまり知られていない。ついでに俺も知らなかった。


というわけで「近代デジタルライブラリー」で「重修真書太閤記」の最初の部分だけ呼んでみた。これが面白い。ネットに詳しい情報はあまりないようなので要点を書いておく。


○昌盛法師 (叡山西塔学林院の僧徒。江州浅井郡長野村百姓弥助ニ男。八歳で出家して昌盛と号す。天下大平を願い竹生嶋弁財天に一千日の日参。荒神山にて断食二十七日。天童が降臨して後孫に天下を授けると宣告する夢を見る。還俗して浅井郡長野村の兄、長左衛門方に同居して耕作を業とする。同村百姓弥五衛門の娘「鷹」(十七歳の美人)を妻に貰おうとするが父母の許しが得られなかった。昌盛は二十三歳の美男子で鷹もまんざらではなく、相思相愛になり遂に契りを結び懐胎する。だが、未婚であり、村中の若者は鷹に気があったので怒って昌盛を殺そうとする。二人で村から逃亡し、尾州愛知郡中村に縁者がいたので、小さな家を借りて、髪を蓄え還俗し、中村弥助国吉と改名すし、「手跡の指南」で生計を立てる。程なく男子が生まれる。弥助は武道を好み浪人と号し仕官を望むも、一生土民の中に暮らし、ついに病死する。


○弥右衛門高吉 (国吉の子。父の遺言により、大願のため、妻を求めて男子を得る。)


○中村弥助昌吉 (高吉の子。織田秀信足軽に召し出される。三河で今川方と合戦の折、太股に傷を負う。お暇を願い中村へ帰る。歩行自由成ざれば武士は難しいと、傘張りを渡世とする。


○五郎助 (愛知郡下中村百姓。鍛冶を業とし傍ら農業をする。仲のおじ。)


○仲 (五郎助の姪。賢女であるが見目形容麗しくないので二十三歳になっても嫁ぎ先がなく、五郎助の許で下女の如くになっていた。父は持萩中納言保廣卿という公卿。三歳で上洛するが父の死を知り帰郷。母も一両年過ぎて死す。五郎助に養育され「仲」と呼ばれる。天文二年四月、弥助の妻となる。女子を産む。次に日吉丸を有無。)


○持萩中納言保廣 (天子を怨む詩を歌ったとの讒言で尾州村雲村に配流される。御器所村の猟師治太夫の娘との間に仲が生まれる。仲が三歳の時に帰洛するも六十日を経ず卒去。)


○日吉丸 (男子が生まれないことを憂いて仲が中村の日吉権現に日参。ある夜、日輪が懐中に入る夢を見る。十三ヶ月後の天文五年一月一日に出生。母が産気付いたとき家の上に彗星が出現し光り輝く。日吉権現に祈り日輪の瑞相もあるので日吉丸と名付けられる。「此子色赤く猿眼にして一ツの目尖く眼中瞳二ツ有て頬先に五つの黒子あり」。猿に似てるので隣家の輩は「猿之助」と呼んだ。年月を経ても色が赤いので「猿」と呼ばれたが、弥助は少しも心に懸けず、猿は山王権現の召し使うところにして健康なるものだ、この子は無事に成長する瑞相だと、親までが折に触れ「猿之助」と呼んだので、自分の名だと心得て、いつのまにか「猿之助」になってしまった。)


(以下略)


興味深いのは、秀吉の母「仲」の叔父が鍛冶であり、名前が「五郎助」だというところ。


「五郎」と鍛冶は明らかに関係がある。ちなみに加藤清正の父も「鍛冶屋の五郎助」(という説があるが異説もある)。
鍛冶屋のゴロー - 国家鮟鱇


さらに、父の弥助は足が不自由であったという。これも鍛冶と関係があると思われる(ヤマトタケル伝説や片目片足伝説など)。ちなみに、加藤清正の父の五郎助も「足を痛めた」とされている。


秀吉の父が足軽で負傷したという話は前から知ってたけれど、歴史関係の本ではそういう部分がすっぽりと抜けて単なる「負傷した」という話になっちゃってる。そういうところが俺の常々不満に思うところ。こういうことはもっと民俗学的に考察されるべき話なのではないだろうか?