「中村」の「仲」(その1)

秀吉の母の「なか」という名前
について少しだけ詳しく。


豊臣秀吉の母は名前を「仲(なか)」という。

大政所(おおまんどころ、永正10年(1513年) - 天正20年7月22日(1592年8月29日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての女性。本名を仲(なか)といい、豊臣秀吉豊臣秀長・日秀・朝日姫の生母である。法名、天瑞院春岩。

大政所 - Wikipedia


彼女の名前について考察した論文は果して存在するのだろうか?俺が今まで読んだことのある秀吉本でそれに触れたものは皆無であるから、少なくとも秀吉研究にとって重要なテーマだとみなされていないことは確かだろう。しかし、これは秀吉の出自を考える際に無視してよい問題ではないと俺は考える。


仲は尾張国中村(上中村あるいは中中村)の木下弥右衛門に嫁いで秀吉を産んだとされる。すなわち「なか」という女性が「なかむら」という場所に住んでいたということになる。この「なか」という名前は「なかむら」と関係があるように俺には思える。しかし彼女の名前を考察したものを見たことがないばかりか、「なか」と「なかむら」の関係を指摘したものさえ俺は今まで一度も目にしたことがない。


従って研究者(在野を含む)がこのことについてどう考えているのかさえ皆目わからない。そもそも両者の関係に気付いていない人が大半ではなかろうか?気付いてないから、両者に関係がある可能性を考察するどころか、ただの偶然であり意味がないという否定的見解すら持ち合わせていないのではなかろうか?すなわち肯定でも否定でもなく「無」の状態にあるように俺には思える。


なぜこれほどまでに無視されているのかというと、それは一つの思い込みがあるからではないだろうか?大政所は尾張御器所村で生まれたとされる。その時点で「なか」という名前が付いていたのなら「なか」と「中村」は関係ないと考えてほぼ間違いないだろう。幼時から中村の木下弥右衛門に嫁ぐことが決まっていたのなら可能性が僅かながらあるかもしれないけれど、そんな話は伝わっていないし、まず有り得ないことだろう。すなわち「なか」が生まれた時から「なか」だったのなら、「なか」と「中村」に関係があるなどと考えることはトンデモ中のトンデモであって、そんなことを考察するのは馬鹿馬鹿しいということになる。


ところが『真書太閤記』には彼女が「仲」と呼ばれるようになったのは、両親と死別して叔父で鍛冶を営む下中村百姓の五郎助に養育されてからと書いてあるのだ。両親が健在のときに彼女が何という名前だったのかはわからない。彼女は「なかむら」という名前の土地に住むようになったときに初めて「なか」という名前が付いたのだ。


もちろん『真書太閤記』は信用できないと歴史家の多くが主張している。しかし、なぜ『真書太閤記』はわざわざこんなことを書いているのだろうか?歴史家お得意の「何々のため」という陰謀論的主張では説明が困難であるように思う。


「なか」という名前が中村に居住するようになってからということを書いても、大政所や秀吉の経歴を飾り立てることになるようには思えないし、逆に貶めることにもなりそうにない。よくある「面白おかしく書いた」というのも、別にこんなことを書いたからと言って面白おかしくなるようには思えない。一体どのような理由があれば、こんなことを書く必要が生じるのだろうか?


一応の可能性としては『真書太閤記』の作者が「仲」と「中村」の関係に気付いて、このような話をでっち上げたということもあるかもしれないが、しかし、それなら「中村」にちなんで「仲」と呼ばれたというような一文を挿入するのが普通ではなかろうか?そう書かなければ「作者の意図」が読者に伝わりそうにないし、現に伝わっていないからこそ両者の関係を論じるなんてことがなされていないのだろう。


『真書太閤記』の作者の創作と考えるよりも、『真書太閤記』の作者がそのような伝説を参考にして書いたと考える方が理に叶っているのではなかろうか。


俺は実際に「なか」という名前は「なかむら」に居住するようになった後に付けられた可能性が高いと思う。



ただし、それだけでは、大きな問題が生じるのである。


(つづく)