一次史料と二次史料と不毛な論争


渡邊大門氏によれば二次史料による検証によって起きる論争は「不毛」なんだそうだ。しかし俺に言わせれば、渡邊氏のような一次史料至上主義者と、二次史料も活用する研究者との対立が不毛である。


前にも書いたけれど渡邊氏は一次史料を非常に重視する。まあ歴史学において一次史料を重視するのは当然なんだけれども、そういうレベルではなく「一次史料のみが重要」だとするような立場。そして最近の歴史学研究のトレンドではこのような人が増えてきた。ただしそういう人に言わせれば「二次史料を全否定しているわけではない」という反論があるんだろうけれども、しかし従来と比較すれば二次史料に対する態度は格段に異なっている。一方、従来のように二次史料を活用する研究者もいる。両者は鋭く対立しているように見える。


もちろん、一次史料と二次史料の記述が矛盾している場合に一次史料の方を優先するのは基本であろう。しかし歴史的な事象の何もかもが一次史料で残されているわけではない。未発見のものもあれば元々存在していないものもあるだろう。そういう場合、つまり「井伊直虎が男であったか、女であったか」のようなケースでは二次史料を活用せざるをえない。俺はそれは十分有意義なことであり「不毛」だとは思わない。


で、俺が思うに、このような一次史料至上主義者とそうでない者との対立はの原因は、両者が同じ「歴史学」という土俵に立っているからだと思う。だからいっそのこと歴史学を、一次史料のみを研究対象として、それによって歴史を記述する「一次史料歴史学」と一次史料を優先するけれども二次史料も活用する「二次史料歴史学」に分割してしまえばいいと思う。


そうすればお互いに「別の学問なのだから」となるので、対立が全く無くなるとは思えないけれど、少しは緩和するのではないか?


なお、この場合は「一次史料歴史学」の人は二次史料は一切使うべきではないでしょう。一次史料至上主義の人が「二次史料を否定しているわけではない」というのは対立を緩和しようとしているのかもしれないけれど中途半端な立場である。場合によっては二次史料を使うというのであれば、本人にそのつもりがなくても恣意性が発生してしまう危険がある。徹頭徹尾一次史料のみを使用すべきである。


それができないのであれば「二次史料歴史学」に属して、その中で「相対的に一次史料を重視する立場」になるべきであろう。そして他の研究者が利用する二次史料が信用できないものだと考えるならば、「二次史料だから信用できない」というような一般論的なものではなくて「かくかくしかじかの理由でその史料の記述は信用できない」という個別具体的な意見表明をすべきでしょう。


と俺は提案したいですね。