何が正しいかは多数決で決まる(悲しいけどこれ、現実なのよね)

前に「科学は多数決で決まる」という記事を書いた。世間じゃ「科学は多数決では決まらない」なんて言ってる人が結構いるけれどそれは間違っている。何が正しいかは多数決で決める他に方法がない。だって「これは正しい」「これは間違っている」と審判してくれる全能全能の神様なんていないんだから。


もちろん多数決で決まるといっても国民投票で決まるというわけではない。基本的には科学知識を有し経験の豊富な科学者が正しいとしたものが正しいのである。また多数といっても過半数が支持した程度では正しいとはいえない。圧倒的多数が正しいとしたときに正しいのである。科学者の何割が支持すれば正しいといえるのかという基準もないし、正しさの度合いが支持した人の割合に比例するものでもない。たとえ一人でも偉大な科学者が疑念を持った理論は、他の全ての科学者が支持していたとしても、その科学者の疑念に耳を傾けるべきものであろう。しかし大雑把に言えば多数決で決まっているのである。


もちろん科学に「絶対に正しいはない」。一つは現在では未発見の現象があるかもしれないということ。その未発見の現象が現在の理論では説明できないものならば理論の修正を迫られるかもしれない。それはどうしようもない。もう一つは現在であっても誤りを見つけることができたかもしれないにもかかわらず見つけることができないという場合。科学者だって人間だから間違うことがある。ただし1人ならともかく全ての科学者が間違う可能性は極めて小さいだろう。そして間違いに気付いた科学者の指摘が受け入れられないということもないと思われる。ルイセンコ事件のようなものは科学とは「別の力」が働いている。そして科学はワールドワイドなのでその「別の力」の影響を受けない科学者がいる。


以上は自然科学を念頭にして考えたものだけれど人文科学だって同じだ(論理的には)。しかし自然科学の「正しさ」と比較したとき、たとえば歴史学の正しさなんて非常に怪しげなものにしか見えない。まあ歴史学と言ってもいろいろあるけど史料解釈なんてどのへんが「科学」なんだって話。


いや史料解釈だって十分「科学」足りえるという考え方もできるかもしれない。一次史料で死亡が確認されている人物が二次史料でその後も生きて活躍しているとすれば、それは史実ではないと判断できる。それは死んだ人間が生き返るはずがないという科学的知識と論理的思考を用いた「科学」であろう。


でも、そういう手法だけで史料の全てについて正しい解釈ができるわけでもなし。史料解釈を科学的に行うことはかなり困難。「正しい」の可能性を数値化できればいいんだけれどそれも無理っぽいと思う。結局のところ多数決で決めるしかないんだろう。釈然としないけれど他に方法がない以上は仕方ない。


でもそうして決定した「正しい」はかなり危ういものだろうというのが実感。というのも自然科学の多くはワールドワイド。IPS細胞の研究をしている人は世界中にいる。でもたとえば日本史などは研究者の圧倒的多数は日本人。本人は無意識であっても日本にある「空気」というものを自然と身につけている。本来なら五分五分の確率のAとBの可能性のうちAの方を無意識に選択した物語を作ってしまう可能性は十分ある。それどころか公平に考えればAの可能性が高いのに誰もAの可能性を考えないなんてこともありうる。というか俺から言わせれば日常茶飯事にある。また今は覆ったけれど何でこんなのが今まで定説あるいは有力な説として通用してたんだ?とあきれてしまうものが実際にある。歴史研究の発達といえるかもしれないけれど、もっと早く気付いても良かったんじゃないの?ってものが結構ある。


なんとかならないんですかね?言うは易く行うは難しなんだろうけど。