史実以前の歴史観の問題

信長は「革命児」とされてきた。それは史実を元にした結論というよりも先に、進歩史観にとって都合の良いものだったからに過ぎないと俺は思う。もちろん史料による裏付けはある。でもそれは都合の良い史料だけを取捨選択して都合良く解釈したということであっただろう。


俺は以前はテレビや雑誌、小説などを見るのが好きだっただけの歴史ファンだったけど、ネットを始めた10〜12年前頃から少し専門的な本も読むようになった(といっても新書や歴史雑誌などだけど)。信長が「天皇・朝廷」「将軍」「仏教」「迷信・慣習」「身分制度」などの古い体制をぶち壊そうとした人物というイメージは以前からあり俺も小学生の頃からそういうイメージを持っていたけれど、10年ほど前は信長が天皇・朝廷と対立していたという説が一段と盛り上がっている時期だった。信長は天皇制を打倒して自らが王になろうとしていたというような話もあった。


当初は元々信長は革命児だというイメージを持っていたし、そういうこともありえるだろうと思ってはいた。でも、少し詳しい書籍を見ているうちに、その根拠となっているものに疑問を持ち始めた。「その根拠で果たしてそんな結論を導き出すことが可能なんだろうか?」と。ちなみに当時既にいわゆる「対立説」を批判する「融和説」はあったのかもしれないけれど俺は知らなかった。俺が感じたところでは「対立説」を批判するのは頭の古い人で、それを受け入れないのは真実から目をそむけているのだみたいな雰囲気があったように思う。


俺の「対立説」への疑問が強固なものになったのは、『信長と天皇』(今谷明)を読んだときだった。「対立説」の根拠となっているものが俺にはそうは全く思えなかったからだ。一体どう解釈すればそんな結論になるのか疑問符がいっぱい付く内容だった。対立説の根拠となっているものが、全く逆に融和説の根拠と解釈できるものではないかと思えるものさえあった。その後「融和説」についても知る機会が増えて、俺の疑問は的外れなものではないと思ったものであった。


直近の信長研究についてもそれと似たようなものを感じる。「革命児信長」が実はそうでもなかったという主張は旧来の説を覆すもののように見えるだろうけれど、根っ子には進歩史観があるということでは同じであろう。進歩史観はざっくり言えば一地域にすぎないヨーロッパの歴史を人類普遍の歴史の発展形態とみなして、他の地域の歴史にもあてはめようとするものである。そこには当然無理が生じる。しかし無理が生じても普遍的な法則だという確信があれば何とかこじつけようとする力が働くのは当然のことである。「対立説」が生まれたのも究極的にはそれが原因だろう。


それが一転して信長は革命児ではなかった、中世を破壊しなかったという説が主流となろうとしている。しかし根底に進歩史観があってそこから脱却できているわけではない。単に歴史の進歩の功労者の座から引きずり下されたというだけのことであって、それは根本的な歴史観の変更ではないのである。そして以前と同じく史料の強引な解釈は相変わらず行われている(と俺は思う)。