近頃信長をテーマにした新刊が相次いで発売されている。
- 日本史史料研究会『信長研究の最前線 ここまでわかった「革新者」の実像』(歴史新書y)
- 金子拓『織田信長〈天下人〉の実像』(講談社現代新書)
- 神田千里『織田信長』(ちくま新書)
- 谷口克広『信長と将軍義昭 連携から追放、包囲網へ』(中公新書)
- 藤田達生『天下統一 信長と秀吉が成し遂げた「革命」』(中公新書)
(参考)
⇒信長新書ラッシュ - 乃至政彦ブログ[虎渓三笑]
俺はまだ一冊も読んでない。図書館で借りて読むつもりだけれど信長本は人気なのでいつになることやら。
ただし、
- 谷口克広『信長の政略: 信長は中世をどこまで破壊したか』(学研パブリッシング )
- 渡邊大門『信長政権 ---本能寺の変にその正体を見る』 (河出ブックス)
- 池上裕子『織田信長 (人物叢書)』(吉川弘文館)
は少し読んでいるので、おおよその見当はつくだろうと思われる。
おそらくは「中世の破壊者」「革命児」とされてきた信長像を見直すという話なんだろうと思う。
しかし、前にも少し書いたように、信長が「中世の破壊者」「革命児」だったのか否かという問いかけ自体が、進歩主義史観が崩壊した時点で陳腐化しているのではないかという思うがどうしても俺にはあるのである。
⇒唯物史観の残滓 - 国家鮟鱇
⇒唯物史観の残滓(その2) - 国家鮟鱇
いやそもそも進歩主義史観が崩壊しているというのは俺の間違った認識で、今でも日本の歴史学界では通用しているのかもしれないけれど。また進歩主義史観でなくても、戦国時代から江戸時代へと時代が変化する過程で信長の果たした役割(信長が意図したものもあろうし、結果としてそうなっただけのものもあろうが)は何かという考察は意義があるものだろう。
だけど、進歩主義的な「信長は歴史が向かうべき方向に進むのに貢献したか否か」で評価するというようなものには俺は違和感を抱かざるを得ないのである。
上で紹介した新刊本がそのようなものなのかは読んでないのでわからない。でも谷口氏の『信長の政略』などを見るとそういう進歩主義的な視点で(意識的か無意識なのかわわからないが)考えているとしか俺には思えないのである。
それの何が問題なのかといえば、進歩主義史観が気に入らないということもあるけれど、それだけではなく「(進歩主義者の考える)進歩に貢献していない変化」は「保守的なもの」とひとくくりにされてしまい注意が払われないなんてことになってしまうということも起こり得るのではないかと思うからである。