真田紐とサナダムシと家康の死因

真田紐とサナダムシについての一般的な説明

関ヶ原の戦い後に九度山に蟄居していた真田昌幸・信繁父子が真田紐を作製し、生計を立ていたという俗説がある。真田紐は真田打ともいい、ひらたく組み、または織った木綿の紐のことである。『安齋随筆』によると、真田紐のくみ方は、九度山に蟄居中、正宗、貞宗脇差の柄を巻くのに作ったのが始まりで、そこから真田父子の発明という真意不明の逸話が生み出された。真田氏の発祥地上田付近も上田縞などで知られる織物の産地であり、九度山も織物の産地であることからこのような逸話が誕生したと考えられる[1]。
真田紐 - Wikipedia

名前の由来は真田紐に似ていることによる。日本の古代には「寸白(すばく)」とよばれた。
サナダムシ - Wikipedia

真田紐は真田父子が発明したものではないけれども、そういう逸話があるので真田紐命名された。サナダムシは真田紐に似ているからサナダムシと命名された。しかし

形状が真田紐に似ていることからその名が付いた。
また、一説では徳川家康がサナダムシに苦しんでいた事から「真田は虫になってまでもこの家康を苦しめる」と嘆いた事から家康が名付け親と言われる事もある。
真田紐 - Wikipedia

という説明もある。豊臣家を滅ぼした家康が、真田と名の付く寄生虫に苦しめられたというのは話が出来すぎているように思う。したがってこの説は捨てがたい。


こっちを採用すれば「真田紐に似てるからサナダムシ」なのではなく「サナダムシに似てるから真田紐」で真田紐の逸話はそこから生じた可能性があり、一般的な説明とは逆ルートということになるかもしれない。


家康がサナダムシに苦しめられたという話は『徳川実紀』慶長18年(1613年)11月15日の記事に

大御所寸白の御なやみ有て。御鷹狩やむ。(駿府記。)

とある。大坂冬の陣の前年だから真田幸村と関係あるはずがない。なお「寸白」は「条虫・回虫などの、人体の寄生虫。また、それによって起こる病気。すんばく。(goo国語辞書)」なのでサナダムシとは限らない。


しかしながら、家康が「寸白」に苦しんでいたという話が発展して、家康は真田幸村の呪いによって苦しんだあるいは死んだ、という説が出てくることは十分ありえよう。とすればその寄生虫がサナダムシと呼ばれることになることもあり得る。


ところで庚申待で知られるように人体には虫がいると考えられている

三尸(さんし)とは、道教に由来するとされる人間の体内にいると考えられていた虫。三虫(さんちゅう)三彭(さんほう)伏尸(ふくし)尸虫(しちゅう)尸鬼(しき)尸彭(しほう)ともいう。

60日に一度めぐってくる庚申(こうしん)の日に眠ると、この三尸が人間の体から抜け出し天帝にその宿主の罪悪を告げ、その人間の寿命を縮めると言い伝えられ、そこから、庚申の夜は眠らずに過ごすという風習が行われた。一人では夜あかしをして過ごすことは難しいことから、庚申待(こうしんまち)の行事がおこなわれる。

三尸 - Wikipedia

「虫気」は「2 痛みを伴う腹の病気。腹の中にすむ三尸 (さんし) の虫によって起こると考えられた。(goo国語辞書)」。この信仰も関わっているのかもしれない。


真田幸村といえば真田十勇士で知られるように忍術と関わりがあるので、上に家康が寸白に苦しんだのは大阪の陣の前だから関係ないと書いたけれども、この時点で幸村が大坂方で、道教の術を使って家康を苦しめたという話があった可能性も考えられなくもない。なお史実上の真田信繁(幸村)は「好白」と名乗ったそうだ。「好白」と「寸白」はなんとなく似てるからこれも影響してたりして。

蟄居中の慶長16年(1611年)に父・昌幸は死去。慶長17年(1612年)に信繁は出家し、好白と名乗った[注釈 8]。
真田信繁 - Wikipedia

面白そうだから史料等で調べてみたいんだけれど、今はその余裕なし。


「真田は虫になってまでもこの家康を苦しめる」と嘆いた

というのは何という史料に載ってるんだろう?ネット上にはこれを載せるのがたくさんあるんだけど出典書いてない。検索したら『真田幸村は生きていた!: 日本各地の「不死伝説」の謎に迫る』(川口素生)に

真田のために壽命を縮めた……

と書いてあるんで、こっちがより原典に近いんだろうけど、やはり出典書いてない。なお川口氏は晩年の家康が寸白のことを真田虫といっていたかを気にしているようだが、家康が虫に苦しめられてそれが真田のせいだと考えたという話で後に虫が真田虫と呼ばれるようになったと解釈すれば、そこはツッコミ所ではないはず。