武田勝頼と家族の肖像画

昨日の歴史秘話ヒストリア。「偉大なる父・信玄よ!〜若きプリンス 武田勝頼の愛と苦悩〜」
歴史秘話ヒストリア


武田勝頼肖像画について

勝頼が家族をいかに大切にしていたかを示すものが残されています。

武田の家紋花菱をあしらった衣を身にまとい凛とした姿の勝頼。すぐ下には妻の北条夫人。そして、その横には息子の信勝。家族三人がまるで寄り添うように一枚の絵の中に描かれています。戦国大名肖像画といえば一人で描かれるのが普通だった当時、家族一緒の絵というのは他に例をみません。

静岡大学名誉教授(戦国史小和田哲男さん「親子三人で一つの図柄に収まっているというのは非常に珍しい。これはやっぱり家族の絆を感じさせる一枚ですよね」

と説明されていた。画像はウィキペディアにある。
武田勝頼、夫人、信勝画像/持明院所蔵
武田勝頼 - Wikipedia


で、俺は勝頼について詳しくないんだけれど、番組では勝頼は武田家通字の「信」を与えられず、正式な後継者ではなく陣代(仮の当主)で、勝頼の子の信勝が16歳になったら家督を譲るのが勝頼の役割だったと。それについては


という批判があるけれども、一応『甲陽軍鑑』にはそう書いてあるそうだ。


「陣代」というのは史実ではないのだろうけれども、勝頼が「中継ぎ」の役割だったというのはありそうな話ではある。


それが真実かどうかはともかく、勝頼が「中継ぎ」であり、信勝が成長したら当主になるのだとしたら、家臣や国衆の忠誠心が向かう先は信勝であり、勝頼への忠誠は「信勝がいてこそのもの」ということになるのではないだろうか?


で、そういう話を先にしておいて、次に武田勝頼の画像に妻と信勝が描かれているという話をされたとき、それに対して「家族愛」的な話をされても、「いやちょっと待ってくれ」と俺が思うのも無理からぬところであって、勝頼の権威の源泉が「信勝」にあるのならば、勝頼の肖像画に信勝が描かれているのは「勝頼が信勝の保護者であることを示すため」という極めて政治的な理由があるのではないかと思ってしまうのである。


ところで俺がこの絵を見て瞬間的に思ったのは、何か宗教的なモデルがあるのではないかということ。「ヒストリア」の冒頭に徳川家康のいわゆる「しかみ像」が出てきて、三方原の戦いで勝頼が「徳川軍を完膚なきまでに叩き潰した」という話をしているのだが、このいわゆる「しかみ像」は三方原の戦いとは無関係という話が去年話題になった。で、読売新聞の記事によると

表現方法などから、江戸時代に描かれたもので、その表情も悔しがっているのではなく、当時よくあった、仏教的な怒りの表情だろうと原さんは推測する。

家康の「しかみ像」は三方原の戦いとは無関係?<家康編13>  : 中部発 : 読売新聞(YOMIURI ONLINE)
ということで、家康を仏神になぞらえている可能性がある。この発想と同じように、この勝頼画像も何らかの仏教的な表現をしているのではないのだろうかと思ってしまうのである。


※ なお、この画像を最初に見た時に咄嗟に頭に思い浮かんだのは仏教ではなくてキリスト教の神(父)とイエス(子)とマリア(聖母)であった。しかしそれはさすがに飛躍しすぎなのでボツ。


あと気になったのは、北条夫人とされる女性が「片膝立」をしていること。

室町時代には片膝立や胡坐が一般的。高台院(北の政所)の高台寺の坐像も片膝立であるように女性もこの姿勢が普通であった。

座法 - Wikipedia
とあるように、座法としてはおかしくはないけれども、女性の画像で片膝立というのはあまり見た記憶がない。高台院(北の政所)の坐像は検索して見たら確かにそうなっている。あと探したら北政所の養女の「初」と「江」の肖像も片膝立。
初さんと江さんの肖像。二人とも片膝立てで座っているのが良くわかりますね |1059kanriの投稿画像
ただしこの三名は全て出家姿。出家してない高貴な女性でこういう姿の肖像画って他にあるんだろうか?というのが少々気になる。考え過ぎかもしれないけどなんとなくインドやチベット方面の宗教画っぽいなと感じてしまうのである。まあ詳しくないんで全く的外れかもしれないけど…


(追記)
これは後世の作り話だろうけれど、清州会議で秀吉が信長の孫の三法師を抱きかかえている絵がある。
清洲会議 - Wikipedia
これは織田家家臣が三法師に拝礼すれば自動的に秀吉に対しても頭を下げる形になることを狙ったものというような説明があるけれど、勝頼の家族画像にもそんな効果があったのかもしれないなんて考えたりもする。