「歴史秘話ヒストリア」服部半蔵 (その2)

そして半月後、信康にも非情の命が下されました。切腹です…とどめを刺す介錯の役目を命じられたのは皮肉にも半蔵でした。
天正7(1579)年9月15日 半蔵38歳 信康に切腹が命じられる)


半蔵「信康様」
信康「半蔵か。わしのためにいろいろ働いてくれたと聞く。礼を言う。されどことここに至ってはやむをえぬ。親しいそなたに介錯を頼めるのがせめてものなぐさめじゃ」
(「馴染みなれば介錯頼む」『改正三河風土記』より)


信康「さらばじゃ!」
刀を我が身に突きたてる信康。しかし半蔵は…
別の家臣「半蔵!」
涙が溢れ、刀を振り下ろすことができません。
(「涙にむせび」『改正三河風土記』より)


別の家臣が代わって介錯し、信康はその生涯を閉じました。享年21…半蔵は信康の亡骸から遺髪を切り取りました…守るべき人を守れなかった無念の思い。半蔵にとって生涯忘れることのできない辛い出来事でした。


半蔵が家康の子信康を介錯できなかったと聞いて、家康は「鬼半蔵といえども主君の首は取れなかったか」と感じ入ったと伝わります。半蔵はこの事件をきっかけに家康から一層信頼されるようになりました。
(「正成は鬼と言われる勇士だが主君の首は斬れなかった」『干城録』より)

歴史秘話ヒストリア

九月十五日、天方山城守道経・服部半蔵正成二股の御使し仰を伝ふ。信康君両人に向はせ給ひ今更何事をか申べきにあらずといへとも我謀叛して勝頼に一味するといふ事はさらに思ひもかけぬ事にて此事のみは我が死後にも父上へ汝等よく/\聞て上てくれよと涙にむせび給へば、山城守・半蔵も其儀は某等一身にかへて申上べしと申上れば、信康君もいと嬉しげに打笑ひ、今は此世に思ひおく事なしと仰られいさぎよく御腹めされ、半蔵馴染なれば介錯たのむと仰ある。仰御姿見上るより鬼と呼れし半蔵もあまりの御傷はしさに伏沈み涙に咽びて手も出しやらず、山城守手間取ては御苦痛の程も恐入り、某御免かふむらんとて御介錯をつとむ(此時の刀は村正なりとぞ)

此後服部半蔵御前に有し時、鬼といはるヽ半蔵も主の首を討かたかりしやと仰ありしを天方山城守聞伝へて大に恐れ終に逐電して高野山に閑居し、年を経て後越前の秀康卿に仕ふといへり。

(『改正三河風土記』)
三河後風土記 - Wikipedia


『干城録』は図書館で確認するしかないか。「歴史秘話ヒストリア」の半蔵が武田家の陰謀を疑い、伊賀者を使って調査したって話の出典は何だろうか?


「半蔵は信康の亡骸から遺髪を切り取りました」というのは西念寺に信康の供養塔とされるものがあって、その縁起からだろうか?
西念寺 (新宿区) - Wikipedia
西念寺|新宿区若葉にある浄土宗寺院、服部半蔵開基


それにしても「半蔵はこの事件をきっかけに家康から一層信頼されるようになりました」なんてことは書いてない。そもそも「此後」とはいつのことなんだろうか?天方が逐電したのがいつかわかるんならわかるけれど。ずっと後の可能性もある。酒井忠次に「お前も我が子が可愛いか」と言ったという話は関東移封後のことだし。出典はちゃんとあるんだろうか?それとも『改正三河風土記』等の記事を見てそう受け取ったということだろうか?ウィキペディアも「正成をより一層評価した」とほぼ同じこと書いてるけど。


ところで、大河ドラマが史実と異なるというツッコミはよく見るんだけど、あれはあくまでドラマ。一方「歴史秘話ヒストリア」は「歴史情報番組」。史実かはともかく少なくとも史料に基づいているべきだと思う。ツッコミ入れるんならこっちの方でしょって思うけど、(大河と比べて)あんまり無いように思われ。