家康公のお漏らしについて

概要はこの記事に書いてある。
徳川家康、実は三方ヶ原の戦いで漏らしていなかった!?

より正確に言えば、『改正三河風土記』という本の「遠州一言坂軍の事」という記事の末尾に

又原書に大久保忠佐神君浜松へ御帰城の時、其御馬の鞍壺に糞があるべきぞ、糞をたれ逃給ひたりと罵りたるよしを記す。此日御出馬なければ逃給ふ事あるべきにあらず。是等皆妄説也、故に削り去りぬ、

とある。まず「三方ヶ原の戦い」ではなくその前哨戦の「一言坂の戦い」である。も一つ重要なのが「其御馬の鞍壺に糞があるべきぞ」で「あるべき」と書いてあることに注意しなければならない。つまり実際に大久保忠佐が確認したわけではない。まあ確認するといっても服を脱がせて確かめるなんてことがあるはずもなく、臭いので「殿は漏らしたに違いない」から「あるべき」とも解釈できないこともないが、「原書」の『三河風土記』を見ればそういうことではない。


「原書」によれば、家康が本多忠勝の諫めによって、一戦もせずに引き返してきたので不甲斐なく思い、また家康が忠勝を良将だといって褒美を与えたので嫉妬して、大久保忠佐が罵ったことになっている。すなわち家康の体から臭いがしたとかいった話ではなく「悪口」を言ったという話。つまり「うんこたれ」「しょうべんたれ」とか言ったものと同類(あるいは「脳が腐ってる」とか「お前の母ちゃんでべそ」とか物理的な事実としてそう言ってるのではない)。つまり、この話は。第一に家康の「御出馬」が無かったので史実ではない(というけど俺は詳しくないので知らない)。第二に史実であったとしても「家康が漏らした」という話ではなく「家康が漏らしたと大久保忠佐が悪口を言った」という話である。


で、この話がなぜ現在よく言われるような形になったのか?という問題。一説には山岡荘八の創作」だという。俺は山岡荘八の『徳川家康』を読んでないので、具体的にどう書いてあるか未確認。その部分だけでも引用してあるのがあればいいんだけど。今度確認してみる。


ところで、これを「創作」と呼べるのかといえば、上に書いたように全くのゼロから創ったものではない。元ネタがある。しかし「一言坂の戦い」が「三方ヶ原の戦い」になり、本当に漏らしたわけではないのに漏らしたことになってしまっており、元の話とは違った話になっているので「創作」といっても良いだろう。


ただ、問題はこれが山岡荘八の「創作」だったとして、彼は『改正三河風土記』または『三河風土記』を直接の元ネタにして「創作」したのかということ。


どうもそうではないようだ。


というのも、徳川家康三方ヶ原の戦いで漏らしたという話が明治時代に既にあるからだ。昨日、家康はなぜ嫌われるのかを考えて、「家康がどう語られてきたか?」を調べようと思って、近代デジタルライブラリーを漁っていて見つけた「徳川十五代記. 上の巻」(明33)。著者は松林若円という人で講釈師(だと思う)。


この本によると、味方ヶ原の戦いのとき、家康が本多忠勝の勇戦を褒め称え、それに大久保忠佐が不服で、何か家康に落ち度があったら突っ込んでやろうと思っていたところ、家康が馬から降りたときに、鞍に少し「小便」が漏れているのが見えた。忠佐は馬丁に「よく馬を洗え、殿は戦に大敗して引き揚げるときに苦し紛れに馬の上で小便をなさったと見え、大層鞍が濡れておる。イタチのせつなっ屁というのは聞いたことがあるが、まだ人間のせつなっ小便ということを聞いたことが無い、いや見たことはない。今日がはじめてだ」と大声で叫んだ。度量の大きい家康もそれを聞いて少し立腹して忠佐をじっと見てたが、忠佐は声を大きくして「おー汚い、おー臭い臭い、大将も苦しい時にはいろいろのことをなさるな…」などど聞こえよがしに大声で叫んだ。馬丁は大いに驚いて「大久保さん、何でそんな大きな声をなさいます。もしこれが殿の耳に入ったらどうなさいます。この鞍に湿りがあるのは小便ではありません、汗ですよ。つまらぬことをおっしゃっては困りますな」というと忠佐は「なに汗だと、馬鹿野郎め、汗と小便がわからぬようでは生涯馬丁をしていなければならないぞ。まず汗か小便か貴様が舐めてみろ、」云々と言い争った(以下略)。というような話。


「小便ではなく汗だ」といったというのは例の「焼き味噌」の話に似ている。『三河風土記』にはそういったものはない。


これが原型かわからないけれども、こうしてみると、(『改正三河風土記』ではなく)三河風土記』を元にして、段階的に変化していったのだと思われる


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