徳川家康はなぜ嫌われるのか?

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ツイッターで話題になっていてボロクソに叩かれている。俺は家康贔屓でもないし、どうでも良かったんだけど、しばらくして面白いテーマだと思った。そういう研究ってあるんだろうか?この記事書いた山岸良二という人は「歴史家」って書いてあるんだけれど「考古学者」であって、その道の専門家ではない。また家康がテーマだからといって、家康時代の研究者が適格だというわけではないだろう。家康時代から現代に至るまで家康がどのように描かれ、どのように受容されていたかが重要だ。


さてネット上の人気武将ランキングを見ると徳川家康は必ずといっていいほどランクインしている。そういう意味では、そもそも「人気が無い」とはいえない。ただそれらのランキングの順位に大いに変動がある。そもそもネット調査はどれほどあてになるものかわからない。おそらく「歴史通」とそれ以外でも評価は異なるのではないかと思われる。


ただ、俺の印象では家康嫌いの人はかなり多いのではないかと思う。まあ印象なので本当にそうなのかはわからない。嫌いな武将ランキングというのはあまり見かけない。「インターネット歴史館」ってところ見たら嫌いな人物部門でぶっちぎりの1位だった(ただし好きな人物1位が梶原景時になってて「?」なんだけど)。


で、家康嫌いが多いと仮定して、それはどうしてなのか?ということを考えたいのだが、まあそれは上の記事に書かれているようなことが理由なんだろう。ただしそれが史実の家康をどれ程反映しているのかといえば疑問符が付き、そこがこの記事が歴史ファンから叩かれる原因だろう)。しかし、どうして家康にこのようなイメージが付いたのかというのが俺にとっては最も気になるところ。


江戸時代においては家康は「神君」であった。ただし幕末においては反幕府の機運が高まり、密かに、あるいは公然と幕府批判がなされた。そして維新後は豊臣秀吉が英雄として称えられた。これは直前の支配者だった徳川の前の支配者の豊臣を持ち上げるという政治的な思惑もあったであろう。ただし、それが家康批判に直結するかといえば俺はそうは思わない(いやよくは知らないけれど)。思うに日本には中国の易姓革命思想が輸入された。ただし本来易姓革命は王朝交代についての思想であり、日本は「万世一系」の天皇には採用されない(全く無いというわけではない)。だからいってみれば「易姓革命思想モドキ」の思想として、武家の盛衰などに受け入れられた。で、易姓革命思想とは、

前王朝(とその王族)が徳を失い、新たな徳を備えた一族が新王朝を立てる(姓が易わる)というのが基本的な考え方
易姓革命 - Wikipedia

というものだから、この思想を受け入れるなら「新王朝」の初代は徳を備えた人物でなければならない。その後裔が徳を失いついには倒れるのだ。この理論によれば豊臣秀吉は偉大な人物だが、早くも2代目で徳を失い徳川にとって代わられ、15代目の慶喜の代で徳を失った徳川幕府が倒れたということになるだろう。だとすれば明治新政府に家康の評価をあえて貶める動機はないように思う。せいぜい「神君」から「人」になるぐらいだろう。そんなわけで、「家康はいつから嫌われるようになったのか?」を考えたとき、明治維新は直接的にはあまり関係ないように思う。


ところで、山岡荘八の『徳川家康』(1953―67)という小説がある。俺は読んだことが無い(横山光輝の漫画は読んだことがある)。この本はベストセラーになった。この時点ではそれほど家康は嫌われてなかったのではないか?いやよくわからないんだけれど。

連載当初は、新興の織田家超大国である今川家にはさまれ、独立もままならない松平家の苦難と発展を、当時の日本の姿に重ね合わせる読者も多かったという。また、明治以降の一般的家康イメージから大きくかけ離れた「戦のない世を作ろうと真摯に努力する家康」「なんとか大坂の陣を回避し豊臣秀頼を助命しようとする家康」「皇室尊崇の念の篤い家康」は、「狸親父家康」のイメージを改善するのに大きく貢献した。後にはビジネス本としても評判となり、経営者虎の巻のような扱われかたもした。ジャイアント馬場落合博満横山光輝など、各界の著名人も愛読したという。

徳川家康 (山岡荘八) - Wikipedia
この記事によれば「狸親父家康」というイメージは既にあったみたいだけど。


なお、俺が子供の頃には「少年徳川家康」というアニメがあった(「一休さん」の前番組)。


家康の「狸親父」イメージは前々からあったかもしれないけど、本格的に嫌われるようになったのはもっと後のことではなかろうか?(いや自信があるわけじゃないけれど)。


で、俺がこれが原因かもしれないと思うのは、その頃から「人間○○○○」とか、「歴史上の人物を等身大で」みたいな風潮ができあがってきて、歴史上の人物を「人間らしく描く」ということになったとき、家康は江戸時代には「神君」であったゆえ、そういう風潮に合わせるエピソードを見つけるのが難しかった。「人間らしい」といえば権力への欲望というのも「人間らしい」一面であるから、そっち方面が強調されることになった。みたいな面もあるのではないかなんて思ったりするのであった。


※ 山岡荘八の『徳川家康』もそういう風潮の初期段階ではあろう。ただ、どっちかというとリーダーとしてのあり方みたいな読み方をされてたんじゃないかと思う。


以上、勝手な思い込み。家康が「狸親父」と呼ばれるようになった経緯とか調べると面白そう。

と家康が「狸」と呼ばれたのは『名将言行録』(1854-1869)にあるそうだが、この「古狸」は、現在の「狸親父」のような意味はなく「ふとりたる老人」の意味であろう。



(追記9/7 18:10)

家康狸親父にあらざる説
徳川家康と云へば、でつぷり太りて何時も莞薾々々したる恵比須顔の中に、老獪極はまる術計を蓄へたる男にして、此の上無き狸親父なりしがごとく、普通に信ぜらるゝなり。されど実際家康の価値は狸親父ならざる真面目なるところにあるにて、狸親父としての手腕に至つては却つて秀吉に劣ること数段なる也
裏面観的異説日本史』伊藤銀月 明42.10

明治42年には「家康=狸親父」が普通に信じられていたという。


「古狸(太った老人)」→「狸親父」に変化していったのだろうか?


もっとも「古狸」にも「経験を積み、ずるさを増した人」という意味がある。とはいえ『名将言行録』の記事は、聚楽第能楽があったとき織田信雄が見事に舞ったのに対し、家康は義経に扮したけれど太った老人なのでちっとも義経に似てないので皆が笑った。諸将が信雄はうつけだ、そんなことをしても何の益もない。家康(古狸)はわざと馬鹿な振る舞いをして太閤様をなぶっていると驚き恐れた。という話。