『三河物語』は徳川中心史観ではなく大久保中心史観 (その2)

昨年の大河ドラマ「どうする家康」でもやってたが、三河一向一揆のときに家康が一揆側と「前々のごとく」という約束したにもかかわらず「前々」は野原だったのだからと、一向宗寺院を破却したという話が『三河物語』に書いてある。

其後土呂、春崎、佐崎、野寺の寺内を破せ給ひて、一向宗に宗旨をかへよと、起請を書せられ給へば、前々のことくに成て可被下と、御起請の有よしを申ければ、前々は野原なれば、前々のごとく野原にせよと有仰て打破給へば、坊主達は此方彼方へ迯ちりて行。

 

この件に関して「戦国・小和田チャンネル  【どうする家康】第9回「守るべきもの」」で小和田哲男氏は

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(家康の)背信行為「家康がそんな子供だましみたいな卑怯な手を使ったとは思えない」

三河物語』の史料としての信憑性に疑問符をつけ つくり話とみる方も多い。

と解説している。ただし、ごく最近の『家康徹底解読』(2023年2月10日初版)で「三河一向一揆 実像編」竹間芳明氏が

三河物語』は家康の家臣大久保忠教が後年に著した二次史料であり、三河一向一揆時にはまだ幼少であった。しかし、父忠員と兄忠世は家康方の忠実な家臣として一揆と戦っており、この家康の背信行為は彼等から伝え聞いたのであろう。しかも後ろめたさは微塵もなく書かれており、あながち虚構とはいえず、意外と真相を示しているのではないか。

と書いているのを紹介している。

 

この話が史実か否かは『三河物語』以外の史料が発見されでもしない限りは判断するのは困難であろう。そして新史料が発見される可能性は低いと思われる。

 

ただし、この話が史実であろうと史実でなかろうと大久保忠教がなぜ徳川家康の「背信行為」を書いたのか?という問題はそれ自体が『三河物語』がどのような史料なのかを考える上で重要な問題であるように思われる。

 

大久保忠教の)つくり話だとした場合、家康の「背信行為」を偽造する理由は何であろうか?ましてや『三河物語』が「徳川中心史観」で書かれているとした場合は非常に不可解なことではないだろうか?

 

つくり話ではなくて、史実だから(あるいは親兄弟から聞いた話だから)それを書いたまでだということだろうか?しかしそうであっても『三河物語』は「徳川中心史観」で書かれているという研究者の主張と矛盾するのではないだろうか?そもそも「徳川中心史観」などという大仰なものでなくても、家康にとって不名誉な話を書くのは控えそうにも思える。

 

一方、大久保忠教(大久保彦左衛門)は後世「天下の御意見番」と称された。とすれば「徳川中心史観」とは逆に、家康の不名誉な事実であっても遠慮せずに書いたという可能性も考えられる。

 

ただし、これらには三河物語』は「大久保中心史観」によって書かれているという視点が欠けている(軽視されている)。その視点でこの逸話を見れば違ったものが見えてくるように思えるのである。

 

(つづく)