「歴史秘話ヒストリア」服部半蔵

さっきやってた

転職忍者ハットリ君の冒険
〜家康の“頼れる家臣”服部半蔵

歴史秘話ヒストリア


信康事件について俺は詳しくない。ウィキペディアを見ると

天正7年(1579年)に家康の嫡男信康が織田信長に疑われて遠江国二俣城で自刃に追いやられたとき検使につかわされ介錯を命ぜられたが「三代相恩の主に刃は向けられない」と言って落涙して介錯をすることが出来ず、家康は「さすがの鬼も主君の子は斬れぬか」と正成をより一層評価したという。この時の様子は 大久保彦左衛門の『三河物語』にも描写されている(→下記外部リンク)。もっとも信康とはほとんど面識が無く、この逸話は後世の創作であるとする説もある。また近年では信康の切腹について、信長が信康を恐れて切腹させたという説や、家康と信康の対立が原因という説も出されている。

服部正成 - Wikipedia

信康は、二俣城主で家康の信頼厚かった大久保忠世に自らの無実を改めて強く主張したが、服部正成介錯で自刃したという。この時、正成が涙のあまり刀を振り下ろせず、検死の武士天方道綱(山城守)が代わって介錯したとの話も残る。道綱は家康が嘆き悲しむのを見て畏れ出家したと言われる(『柏崎物語』)。

松平信康 - Wikipedia
三河物語』には

天方山城と服部半蔵を仰被付而天正六年戊寅御年廿にて十五日に御腹を被成けり

とある。また『柏崎物語』に

三觔殿二股にて御生害ありし時。撿使として渡邊半藏守綱。天方山城守通興を遣はさる。二人歸りきて。三觔殿終に臨み御遺托有し事共なくなく言上しければ。   君何と宣ふ旨もなく。御前伺公の輩はいづれも淚流して居し內に。本多忠勝榊原康政の兩人は。こらへかねて聲を上て泣き出たせしとぞ。其後山城守へ。今 度二股にて御介錯申せし脇差はたれが作なりと尋給へば。千子村正と申す。  君聞し召し。さてあやしき事あもるもの哉。其かみ尾州森山にて。安部彌七が  芿康君を害し奉りし刀も村正が作なり。われ幼年の比駿河宮が崎にて小刄もて手に疵付しも村正なり。こたび山城が差添も同作といふ。いかにして此作の 當家 にさゝはる事かな。此後は御差料の內に村正の作あらば。みな取捨よと仰付られしとぞ。初半藏は三觔殿御自裁の樣見奉りて。おぼえず振ひ出て太刀とる事あた はず。山城見かねて御側より介錯し奉る。後年君  御雜話の折に。半藏は兼て剛强の者なるが。さすが主の子の首打には腰をぬかせしと宣ひしを。山城守承り 傳へてひそかに思ふやうは。半藏が仕兼しをこの山城が手にかけて打奉りしといふては。君の御心中いかならんと思ひすごして。これより世の中何となくものう くやなりけん。 當家を立去り高野山に入て遁世の身となりしとぞ。(

東照宮御實紀附錄卷一
とある。


これらを見るとウィキペディアの記事および細かくは記憶してないけど「ヒストリア」で言われたことは『柏崎物語』を出典としていることがわかる。ただし「三代相恩の主に刃は向けられない」という記述は見当たらない。また「さすがの鬼も」とも書いてない。そして家康がそれを話したのは「後年」のこと。また「検死の武士天方道綱(山城守)が」とあるけれど、検死役は半蔵と天方の両名で役割分担があったわけではない。そしてそもそも『柏崎物語』の半蔵とは「渡邊半藏守綱」のこと。
渡辺守綱 - Wikipedia


この『柏崎物語』という史料がどういうものなのか俺は知らない。検索してもよくわからない。


一番気になるのは介錯というものについて。『三河物語』には介錯については何も書かれていない。『柏崎物語』は介錯と書いてあるけれど「検使につかわされ介錯を命ぜられた」とは書いてない。書いてあるのは

初半藏は三觔殿御自裁の樣見奉りて。おぼえず振ひ出て太刀とる事あたはず。山城見かねて御側より介錯し奉る

ということだ。「おぼえず振ひ出て」の意味がちょっとわからないんだけれど、後に「腰をぬかせし」とあるから「思わず震えが出て」ってことだろうか?「山城見かねて」というのは「半蔵が介錯しないのを見かねて」とも取れるけれど「信康が苦しんでいるのを見かねて」という意味にもとれる。同じことのようにも見えるけど微妙に違うだろう。


で、俺は全然詳しくないんで、わからないのは、介錯することはあらかじめ決まっていたことなのか、それとも信康が死にきれずにいるので介錯したということなのか?ということ。


ウィキペディアの「切腹」によれば

戦国時代や江戸時代初期においては介錯人がつかず、腹を十文字に割いたり[7]、内臓を引きずり出したりといった過激な方法も用いられていたと言われ、軍記物にもそのような描写が散見される(状況によっては、ただちに失血性ショックや腹膜刺激症状を起こし、失神ないし運動失調を来すため、実行は困難を極めるが、成功した例も報告されている[8])。

切腹 - Wikipedia
とある。もし介錯することがあらかじめ決まっていなかったのだとしたら、信康事件のウィキペディアの記事はちょっと問題あるかもしれないと思うんだけど、そこんところがよくわからない。