『三河物語』は徳川中心史観ではなく大久保中心史観 (その3)

徳川家康は「前々のごとく」という起請文を交わしたにも関わらず、「前々は野原なれば、前々のごとく野原にせよ」という理屈で一向宗寺院を破却したと『三河物語』に書いてある。これは家康の「背信行為」だとされている。

 

この逸話がなぜ『三河物語』に書かれたのかを探るには、まず「前々のごとく」の起請文が交わされた経緯を知る必要がある。それは『三河物語』に書かれている。

 

三河物語』によれば、まず一揆方の八屋半之丞(蜂屋貞次)が大久保次衛門(大久保忠佐)を呼び出して「和議を結びたい」と言い出したことに始まる。大久保忠佐は『三河物語』著者大久保忠教の兄。忠佐・忠教の父は忠員で、忠員の兄の忠俊の娘が蜂谷貞次の妻。つまり忠佐・忠教兄弟の従妹の夫が蜂谷貞次。

 

大久保新八郎(忠勝。忠俊の息子)と忠佐が同道して家康にこ申し上げると、家康は喜び「急げ」と命じた。そこで和議の交渉が始まり、「寺内を前々のごとく立をかせられ」ることと「一揆の企ての者の命を御拾免」することが条件として提出された。

 

家康は和議交渉に応じた蜂谷貞次他数人の助命と「寺内を前々のごとく」は承知したが、一揆企ての者は成敗すると答えた。しかし一揆側は他の者も助けてほしいと譲らず和議交渉は進捗しなかった。

 

大久保常源(忠俊)は、一揆勢との戦いで大久保一族が血の池を流したことを鑑み、その時の辛労分と思い、一揆企ての者の助命を家康に願い、和議が成立したら彼らを先陣にすれば、酒井将監・吉良殿・松平監物・荒河殿を押し潰すことができる。彼等の望みを承諾して、まずは和議を結ぶべきだと主張した。そして

御手さへ廣くならせられ給はゞ、其時は何と被成候はんも御儘に罷可成物を、只今は何かと被仰處にあらずと

と言ったとある。要するに大久保忠俊は「約束なんて後で破ればいいので、とりあえず今は彼らの望みを叶えると約束して利用すべき」と家康に入れ知恵したのである。

 

そして、和議を結んだ後に酒井将監・吉良殿・松平監物・荒河殿という敵対勢力を追いつめて目的を達成した後に一向宗寺院の破却という「背信行為」を実行したと『三河物語』ではなっている。

 

つまり、家康の「背信行為」は大久保一族の忠俊のアドバイスに従った結果なのである。

 

だとすれば、家康の「背信行為」は家康にとって都合の悪い話というだけではなく、それをアドバイスした大久保一族にとっても都合の悪い話ということになってしまうのではないかと思えてしまう。しかしながら『家康徹底解読』で竹間芳明氏が書いてるように、このことは「後ろめたさは微塵もなくなく書かれて」いるのである。

 

どういうことかといえば、要するに大久保忠教は家康が一揆勢との起請文を(屁理屈によって)反故にした行為を卑怯な行為だとは全く考えていないということであろう。そして家康の行為は大久保一族の忠俊のアドバイスによるものであるということを誇りに思っているということであろうと考えられるのである。

 

(つづく)