『三河物語』は徳川中心史観ではなく大久保中心史観 (その4)

家康は一揆勢との和議の条件「寺内を前々のごとく」を「前々は野原なれば、前々のごとく野原にせよ」という屁理屈によって反故にした。一般的にはこれは家康の「背信行為」であり、卑怯なことだと考えられている。よって家康にとって不都合な話であり、隠蔽すべきことになるはず。

 

ところがこの話は「徳川中心史観」などと評される『三河物語』が出典なのだ。家康に都合が悪い話が書かれているのならそもそも「徳川中心史観」という評価が間違っているとも考えられる。だが「徳川中心史観」であるにも関わらずこの話を載せているから、これは史実だと考えられるという解説を見たことがある。そういうとらえ方も出来るのかもしれないが、それでは「徳川中心史観」というレッテルが貼られたなら、それに反することが書いてあっても色々理屈をつければ「徳川中心史観」だという評価は揺るがないことになってしまう。だったら何でもありになってしまうのではないか。

 

それに対し『三河物語』は「大久保中心史観」で書かれているという視点で見れば、別の可能性が見えてくる。大久保忠教は家康の「背信行為」を家康にとって都合の悪いことだとは考えておらず、家康に助言した叔父の大久保忠俊を誇らしげに語っているのだと。

 

そう考えれば、結局のところ『三河物語』の著者の大久保忠教の「史観」においては、(他者が読んでそう感じるかはともかく)家康にとって都合の悪い話を書いたのではないということにはなる。ということはこれもまたある意味「徳川中心史観」になるのではないかということになるかもしれないけれども、「大久保中心史観」で書かれているという視点が無ければ、なかなかそこにたどり着けるものではないであろう。

 

なんか非常にややこしい話になってるかもしれないけれど、そもそもが『三河物語』が「徳川中心史観」で書かれているという誤った認識によって読まれているから、それを一度チャラにして改めて読み直すという作業が必要なのでややこしくなるのであって、それが無かったらそこまでややこしい話ではないはず(他の事例についても同様のことがいえる)。

 

ところで、この話が史実か否かは既に書いたように『三河物語』以外の史料が発見されでもしない限りは判断するのは困難であり、新史料が発見される可能性も低いのではないかと思われる。

 

ただし「家康がそんな子供だましみたいな卑怯な手を使ったとは思えない」といった疑問は、家康にとって都合の悪い話だと受け取った上での疑問であろう。ところが出典は「徳川中心史観」だとされる『三河物語』なのだ。もっともそう主張してる人は『三河物語』が「徳川中心史観」だと考えてない人なのかもしれないが。とにかくこの二つの主張には整合性が無い。

 

しかし『三河物語』は「大久保中心史観」で書かれていて、また家康の行為は(大久保忠教からみれば)家康にとって都合の悪い話ではないと考えられていたのだとすれば、この逸話は大久保一族の自慢話であり、自慢のために話を盛っているる可能性があるのではないかという全く別の史実性の疑問が発生するであろう。

 

これは「大久保中心史観」という視点がなければ、ちょっと思いつかないことではないだろうか?

 

(つづく)