『三河物語』は徳川中心史観ではなく大久保中心史観 (その1)

三河物語』は『徳川中心史観(松平・徳川中心史観)」によって書かれているとし「徳川中心史観からの脱却」を主張する研究者は多い。だが本当に『三河物語』は徳川中心史観の書なのであろうか?

 

著者の大久保忠教(1560~1639)は江戸初期の旗本。徳川家臣大久保忠員の8男として三河で生まれ育った。そういう環境にいれば自然と徳川中心の物の見方になることは考えられる。また徳川氏にとって都合の悪いことは書かないということも考えられる。そういう意味での「徳川中心史観」はあるかもしれない。ただしあらゆる文書史料はそれが書かれた背景を考慮して読まなければならないのは当然だ。これは『三河物語』に限ったことではなく、ことさら「徳川中心史観」などと大仰なことを言う必要は無いように思われる。

 

だが『三河物語』を徳川中心史観と呼ぶ場合、そういった普遍的にありうる偏見や取捨選択ではなく、より積極的な事実の改竄・捏造がなされているという意味が込められていると考えられる。

 

よく指摘されてるのが大岡弥四郎事件および信康事件。近年は家康が今川の人質だった頃の境遇についてもよく言われている。ただしこれらの指摘が妥当なものかといえば、俺は大いに疑問に思ってる。『三河物語』には史実と異なることが書かれているかもしれない。それを検証するに際して「徳川中心史観で書かれている」という先入観は有益なものだろうか?「徳川中心史観」なるものは研究者が自説に都合のよいように『三河物語』を解釈して利用しているだけではないかとさえ思っている。

 

ところで『三河物語』は「徳川中心史観」と言われる一方で、重要なことが軽視されているのではないかと思う。それは三河物語』は「大久保中心史観」の書だということ。

 

三河物語』の著者は大久保一族の大久保忠教であり、子孫のために書き残したと、少なくともそういう体裁になっている。大久保一族による大久保一族のための書なのである。あまりにも当然のことなので「徳川中心史観」というパワーワードの前では霞んでしまっているのかもしれない。

 

だが、この当然のことを軽視・無視して、「徳川中心史観」で書かれているということにのみ注視して『三河物語』を読んでいては大事なことを見落として、さらには歪んだ解釈をしてしまうのではないだろうか?

 

(つづく予定)

 

 

※ なおこの件については一年前に「X(旧Twitter)」にも書いているので、このスレッドの方も読んでほしい。