青山成重と大久保長安と『甲陽軍鑑』(その1)

江戸時代初期に青山成重という人物がいる。

 

『寛政重脩諸家譜』によれば、服部平藏正信の二男、母は靑山平大夫忠教の女。元亀2(1571)年青山忠重が戦死して後継がいなかったので徳川家康の命で後を継ぎ近習となったという。慶長18(1613)年大久保長安事件に連座して隠居。理由は書いて無いが成重が大久保長安三男の成国を養子にしてたことが関係すると思われる。

 

成重の出自は『寛政重脩諸家譜』では服部平藏正信の二男、母は靑山平大夫忠教の女ということしかわからない。だが『柳營婦女傳系』等によれば、青山成重の兄は服部平太夫(正尚)という。

 

服部平太夫天正10(1882)年本能寺の変の時に堺にいた徳川家康が本領三河に帰還する(伊賀越え)際に、蓑笠を奉ったことにより蓑笠之助という名を改めるように言われたという逸話を持つ人物。

 

徳川の天下となった後に江戸に召し寄せようとしたが老齢のために辞退。そこで弟の服部七右衞門家督を継ぐように仰せがあって、後に弟は青山図書介と名を改めたという。その後「家督の儀(大久保成国を養子にした件だろう」に付き領地没収。

 

服部平太夫(養笠之助)の嫡男は服部惣右衞門(『玉輿記』では忠右衞門)は尾張藩に、次男·三男は早世、四男平四郞が平太夫隠居料百五十俵を譲り受け二代目養笠之助となる。

 

※なお『柳營婦女傳系』等によれば、服部平太夫は家康側室西郷局の父。つまり服部平太夫は二代将軍徳川秀忠及び松平忠吉の祖父ということになるが、それについて言及すると煩雑になるのでここでは略。

 

とにかく服部平太夫(蓑笠之助)と青山成重は実の兄弟。ということは服部平太夫の父は服部平藏正信ということになるが、『蓑笠之助伝』に父は服部平藏正信、弟に七右衛門忠頼とある。ただし兄に小平太正辰がいることになっているので『寛政重脩諸家譜』に二男とあるが、こっちでは三男(姉がいるので四男と書いてあるが)。

 

ところで『寛政重脩諸家譜』「蓑」によれば、

慶長十八年大久保石見長安罪かうぶるのとき正長所緣あるにより、これに坐して御勘氣をうけ采地をもおさめられ、のち赦免ありて猿樂の列となり、三代にして正高にいたるといふ。

とあり、服部平太夫(養笠之助)の子孫も大久保長安事件に連座して後「猿樂の列」となったが、正高(巳野庄之助の養子)の代に幕臣に取り立てられる。

 

ということになっているけれども、実際のところは服部平太夫は元から猿楽師であったと考えられる。そして青山成重もまた猿楽師であったと考えられる。

 

(そのあたりのことは、これまた煩雑になるので略す。本当はこっちが本命で、今書いてるのはそこから派生した話。こっちはこっちでいずれ書きたい。とっちらかっているけどツイッターで書いてる)

 

で、青山成重についてはこれでおしまい…とはならない。

 

青山成重の出自については異説がある

 

(つづく)