青山成重と大久保長安と『甲陽軍鑑』(その5)

これでとりあえず終わり(にしたい)。

 

『猿楽傳記』によると小鼓の始祖は「美濃権頭」だという。これを宮増弥左衛門・弥七郎兄弟が伝授したという。

 

一方、『老人雑話』によれば、大蔵道入の子で大蔵道知の弟の大蔵道意の師匠は「美濃権頭」だという。宮増は美濃権頭の弟子だという。しかしながら小鼓の始祖の「美濃権頭」と大蔵道意の師匠の「美濃権頭」は時代が異なり別人かと思われる。

 

ただし『四座系図書幷家々次第』によれば、大蔵道入の弟の大蔵九郎を「太鼓元祖美濃権頭弟子」としている。

 

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『猿楽伝記』の話と合わせれば「大蔵道入の弟(九郎)は美濃権頭(元祖)の弟子で、宮増(弥左衛門・弥七郎)も美濃権頭(元祖)の弟子」という話になる。一方、『老人雑話』の話は「大蔵道知の弟(道意)は美濃権頭の弟子で、宮増も美濃権頭の弟子」という話になり、極めて構造が似ている。つまり『老人雑話』が「道入」とすべきところを「道知」としてしまったために一代ずれている可能性があるように思う(その逆の可能性もあるが)。ただし調べた限りではそういう指摘をしているものは見つからなかった。

 

※ なお『四座系図書幷家々次第』によれば、大蔵道知・道入兄弟は大蔵道入の子ではなく、道入の弟の大蔵五郎の子(道入の甥)としている。すると道入の孫とされる大久保長安との関係も親族なのか変わらないが続柄が変ってくる。ただし近年の学術書でも一般的には「大蔵道知・道入兄弟は大蔵道入の子」とされている模様。

 

これが重要なのは大蔵道意の師匠は誰か?ということで、『老人雑話』では美濃権頭になっているが、大蔵道意の師匠は美濃彦六だという説があるようなのだ(ただし未確認)。この美濃彦六は初代美濃権頭の弟子の宮増弥左衛門の甥。

 

もちろんこの「美濃彦六」は青山成重(蓑彦六)のことではない。時代が合わない。だが『四座役者目録』という史料に「美濃彦六」についての記事があり、

宮増弥左衛門の甥也。七十バカリの時伊勢滝川左近ニテ

と書いてあり、「美濃彦六」が滝川一益(左近)と関係があったことが示されている。

すると滝川一益の小姓だった蓑彦六(青山成重)は「美濃彦六」の名跡を継承した可能性が見えてくる。

 

ところで、蓑彦六は蓑笠之助の弟。蓑彦六が美濃彦六の名跡を継いだとて兄が「蓑」になるはずもなく、すると蓑笠之助・蓑彦六兄弟は美濃彦六の縁者という可能性が出てくるように思われる。

 

だが、ここで問題になるのが、蓑笠之助こと服部平太夫は元は長命平太夫という狂言師だったという『猿楽伝記』の記述。

 

これを繋げることができるのか?それとも推理に無理があるのか?これ以上の調査は俺の能力の限界を超えてしまうと思うので、とりあえずおしまい。新情報があれば書くかもしれないが。

 

あと書き忘れてたが、蓑彦六(青山成重)は滝川一益の小姓、すなわち青山成重になる前から武士だった。その一方で猿楽師でもある(その間は武士でなくなったかもしれないが)。兄の蓑笠之助は(はっきりしないとはいえ)猿楽師である一方、少なくとも伝説上では武士。この武士であって猿楽師でもあるという二面性は重要だと思うが、これも現時点では書く余裕がない。

 

以上。