妻木氏の謎(その1)
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ニュースで妻木頼利の名前を見たので前々から気になってたことを書いてみる。
妻木頼利(1585~1653) 江戸時代前期の武士。天正13年生まれ。妻木頼忠の子
『寛永諸家系図伝』(以降『寛永譜』)は寛永18-20年(1641年-1643年)に編纂されたので、妻木頼利は『寛永譜』の中では生存している。
某 源二郎 藤右衛門 天正十年、明智日向守光秀滅亡のとき、藤右衛門江州坂本西鏡(教)寺におゐて自害す。光秀ガ叔父たるによつてなり。時に六十九歳。法名 宗眞
その子が
貞徳 或は貞行といふ。源二郎 傳兵衛 母は水野下野守(信元)姪。織田信長に仕へ、馬廻の役をつとむ。其のち家督を頼忠にゆつりて、妻木に居す。元和四年、死す。七十五歳。法名傳入。
その子が
そしてその子が
頼利 権左衛門 慶長五年、人質となり、駿州に下向の時、岡部にて大権現(家康)を拝したてまつり、すなハち江戸へくだる。同六年四月、御いとまをたまハり妻木にかへり、本領をくださる。同十四年より、つかへたてまつる。
となっている。ところが。ふとしたことで「多治見・陶祖碑」というのがあることを知る。そこに
妻木廣忠為明智光秀驍将戦死於阪本城子頼忠為光秀妹婿関原之没岩邨城主田丸中務黨大阪頼忠與之戦斬旡數東照公命堅守妻木城大阪没又有戦功世領土岐郡十二町邨
とあるという。
妻木廣忠という人物は明智光秀の勇将で坂本城で戦死したという。『寛永譜』の「某 源二郎 藤右衛門」のこと(『寛政重脩諸家譜』以下『寛政譜』))。問題はその次。「子頼忠為光秀妹婿」。妻木広忠の子の頼忠は光秀の妹婿だという。『寛永譜』では「某 源二郎 藤右衛門=広忠」の子は貞徳であり、頼忠は広忠の孫。光秀の妹婿という話も載ってない。
この『陶祖碑』というのは明治35年撰文とあるので近代のもの。しかしながら何らかの伝承があるから『寛永譜』とは異なる妻木氏の系譜を書いているのだろうと思われる。
そんなわけで調べて見ると『岐阜県土岐郡妻木村史』所収の妻木氏の系図に
廣忠 妻木藤右衛門尉 法號清閑院殿一友宗心大居士
その子が
頼忠 妻木傳兵衛尉入道傳入元和六年八月卒 法號長壽院殿卜菴宗龜大居士
となっている。藤右衛門尉の子は頼忠。ただし「傳兵衛(尉)」「傳入」は『寛永譜』の貞徳と同じ。「元和六年八月卒」とあるが『寛永譜』の貞徳が元和4年、頼忠が元和9年卒だからどちらとも合わない。
ただし『寛政譜』で貞徳は「今の呈譜元和六年八月九日死す年九十五法名宗龜」とある。つまり『岐阜県土岐郡妻木村史』の頼忠と『寛政譜』の貞徳は同一人物の可能性が高い。(ただし『寛永譜』で貞徳は「元和四年、死す。七十五歳」なのでそれとは大きく異なる)。
なお、『岐阜県土岐郡妻木村史』によれば妻木村郷社八幡神社棟札に「永祿二年夏妻木廣忠、慶長十三年妻木傳入賴忠」とあれど「貞徳は」無い模様。そこから考えても「貞徳」なる人物は存在しない可能性が考えられる。
そこから考えられるのは、実は貞徳は頼忠と同一人物だが錯誤で親子とされてしまった。あるいは貞徳は妻木氏ではあるが嫡流で無い者が混入して、なおかつ頼忠と混同されてしまった可能性があるように思われる。
ただし、問題が無いわけではない。なぜなら既に書いたように『寛永譜』は寛永18-20年(1641年-1643年)に編纂されたもの。そして妻木頼利は天正13(1585)年生れだということ。『寛永譜』(『寛政譜』も)によれば父の頼忠は元和9(1623)年没。『寛永譜』編纂1641年の僅か18年前のこと。そして子の頼利は元和9年には既に39歳だ、『寛永譜』の貞徳の元和4年卒でも既に34歳。
物心がつかない幼児ならともかく、その時点で立派な成人なのだ。父の頼利や祖父?の貞徳についてこんな誤りをすることがありえるだろうか?
大いなる謎である。
※ なお、この件は2018年に調べたことを今になって思い出しながら書いている。まだ何か書き忘れてるかもしれないので、思い出したら追加する。
土岐市妻木町の八幡神社に「永禄二年夏妻木廣忠」の棟札があるとの由。
— 国家鮟鱇 (@tonmanaangler) 2018年10月18日
妻木氏の件だがよくよく考えてみたら『寛永譜』が出来たときの当主は頼利。『寛政譜』で計算すると1585生。父の頼忠死去時39歳。祖父貞徳死去時33歳。いくらなんでも父や祖父のことを知らないということは無いな。
— 国家鮟鱇 (@tonmanaangler) 2018年10月19日