地震とナマズと豊臣秀吉

地震ナマズが結び付けられた最古の史料は豊臣秀吉文書だという。文禄元年12月(1593年1月)前田玄以に宛てた書状の中に

ふしミのふしん、なまつ大事にて候まゝ

とある。これは「伏見の普請、なまず(鯰)大事にて候まま」で「なまず大事」とは「地震対策が大切」という意味なんだそうだ。検索してみたところ、複数の論文で取り上げられているので定説となっているのだろう。『豊臣秀吉文書集五』(吉川弘文館  2019)でも「なまつ(鯰)」となっている。

 

天正13年11月29日(1586年1月18日)に天正地震があり、また「なまつ」が「ナマズ」以外に当てはまりそうなものが思い浮かばないということからも、これが「ナマズ(鯰)」であり、地震と関係している可能性は高そうではある。

 

しかし、そうはいっても不思議なのは仮に「なまつ=ナマズ」だとしてもナマズ大事」が「地震対策が大切」という意味になるのは相当飛躍しているのではないかということ。

 

地下に大ナマズが棲み、ナマズが動くと地震が起こるという俗説が江戸時代にあった。だが地震のことをナマズと呼んだわけではない。あくまで地震の原因であって地震そのものではない。さらに仮に地震ナマズと呼んだとしても「地震対策が大切」を「ナマズ大事」などと表現するだろうか?

 

そのように考えると「なまつ大事」が本当に「地震対策が大切」という意味なのかは大いに疑問に思わざるを得ない。百歩譲って「なまつ」が「ナマズ」で地震と関係あるとしても、我々が連想するナマズ地震の関係とは別の何かだったのかもしれない

 

そして第二の疑問は、地震ナマズが結び付けられた最古の史料が文禄元年12月(1593年1月)の豊臣秀吉文書だとして、では2番目に古いのは何だ?ということ。

 

調べて見るとかつて最古とされていたのは延宝6(1678)年の松尾芭蕉(桃青)の句だという。

地震續いて龍やのぼるらん 似春

長さ 十丈の鯰なりけり 桃青

1678年は1593年の85年後であります。その間に地震ナマズが結び付けられた新たな史料が発見されたのでしょうか?調べても良くわかりません。85年もの空白があるとするなら、それは非常に不自然なことではないでしょうか?

 

ところで、この秀吉文書にはもう一つとても気になるところがあります。

ふしミのふしんの事、りきうにこのませ候て、ねんころに申つけたく候、

豊臣秀吉文書集五』では「りきう(千利休)」となっています。ところが千利休天正19(1591)年に秀吉の命令で切腹してこの世にいません。秀吉はボケてしまって利休が生きてると思ってるのでしょうか?

 

しかし、ここでさらにもう一つ非常に気になることがあります。それは京都市伏見区に「生津」という地名があることです。現在の地名は「淀生津町(よどなまづちょう)」であります。

 

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地図を見ると石清水八幡宮の近くです。そして石清水八幡宮の元宮といわれる離宮八幡宮京都府乙訓郡大山崎町からも比較的近くにあります。離宮八幡宮は「りきゅうはちまんぐう」と読みます「りきゅう」であります。

 

ふしミのふしん、なまつ大事にて候まゝ

「なまつ」とは「生津」のことではないのでしょうか?

ふしミのふしんの事、りきうにこのませ候て、ねんころに申つけたく候、

「りきう」は「離宮八幡宮)」のことではないのでしょうか?

 

正直このあたりの土地勘もなければ歴史もあまり詳しくありません。しかしとても気になります。

 

「太閤堤」は、文禄3年(1594年)、 豊臣秀吉伏見城築城に伴っ て行われた、淀川・宇治川の大 規模な治水土木工事の総称

 史跡宇治川太閤堤跡保存整備フォーラム  (PDF)

文禄3年が史料上の初出(『家忠日記』)だそうだけれども、文禄元年の「伏見の普請」の計画の中に含まれてる可能性は十分あるように思われる。

 

(追記 1/14)

『談林十百韻』延宝3(1675)年

要石なんぼほつてもぬけませぬ 松意

鯰の骨を 足にぐつすり 雪芝

俳諧類船集』延宝4(1676)年

刀の鞘 地震 人の肌 瓢箪 池 竹生嶋 弁戈天

これを見るに地震ナマズを結びつけることは延宝年間に広まったように思える。秀吉の時代から離れすぎているのではないだろうか?