武田信玄の「ラブレター」(その6)

「寝る」は「同衾する」という意味ではなく「眠る」という意味だと仮定して信玄文書を見てみる。

一、弥七郎、とぎに寝させ申し候事、これなく候。この前にもその儀なく候。いわんや昼夜とも弥七郎と彼の儀なく候、なかんずく今夜存じ寄らず候の事。

ここにある「とぎ」が「伽」なのは間違いない。じゃあやっぱり信玄は弥七郎と寝た(やった)という話ではないかと思うかもしれないけれど早まってはいけない。


「伽」の意味は国語辞書によればこうなる。

1 退屈をなぐさめるために話し相手をすること。また、その人。「老人の―をする」
2 病人の世話をすること。看病。
3 通夜。「明(あく)る日一晩お―をして」〈木下尚江・良人の自白〉
4 「御伽衆(おとぎしゅう)」に同じ。
5 寝所での相手をすること。また、その人。「旅人衆の―でもして」〈滑・膝栗毛・三〉

伽 とは - コトバンク


したがって「伽」とあるから性的な話だと思ったら大間違いなのだ。


ところで「御伽衆」と言えば豊臣秀吉の御伽衆が有名だ。

豊臣秀吉は、読み書きが不得手であり、それを補うべく耳学問として御伽衆を多く揃えた。一説には800人とも言われる。また、秀吉の御伽衆には、旧守護家出身など出自が高い者や元々は主筋や目上の武将だった者も多かった。それは、出自が低い自分が今では位人臣を極め、由緒ある血筋や家柄の者すら従うという意味を込めていたと言われている。

秀吉の御伽衆として、武家では足利義昭織田信雄織田信包織田有楽斎六角義賢六角義治佐々成政、山名氏政、山名豊国、宮部継潤、滝川雄利、古田織部、金森長近ら。町人では千利休今井宗薫曽呂利新左衛門らが挙げられる。

彼らは、秀吉の治世を内政面から支えるとともに、壮麗な桃山文化を生み出し、一方で簡素さを追求したわび茶を完成させるなど、のちの日本文化の一面を形づくった。

御伽衆 - Wikipedia


この「御伽衆」は秀吉に性的な奉仕をしていたのではない。そもそも秀吉は男色が当たり前のように行われていた時代にあって、その趣味が無かった稀有な人物として有名だ。

戦国大名は主君と臣下の男色(衆道)を武士の嗜みとしていたが[75]、秀吉は衆道への関心がなかった。男色傾向のなさを訝しんだ家臣が家中で一番との評判の美少年を呼び出し、秀吉に会わせ二人きりにさせたのだが秀吉はその少年に「お前に姉か妹はいるか?」と聞いただけだったと言われる。

豊臣秀吉 - Wikipedia


そしてこれが重要なことだが、「御伽噺(おとぎばなし)」という言葉は今では子供に聞かせる伝説・昔話ということになっているけれども、元はそうではなかった。

おとぎ話の起源

狭義のおとぎ話(御伽話)は、太閤秀吉が抱えた御伽衆の語った面白話に起源があるとされる。御伽という風習そのものは別名・夜伽(=通夜)にもあるように、古くからある徹夜で語り明かす伝統に基づいている(庚申待)。その晩に話される話を夜伽話、転じて御伽話とされるに至った。

説話 - Wikipedia


「おとぎ話」の起源は庚申の日の夜に徹夜で語り明かされた「夜伽話」なのだ。


(つづく)