武田信玄の「ラブレター」(その7)

再度、武田信玄文書より

一、弥七郎、とぎに寝させ申し候事、これなく候。この前にもその儀なく候。いわんや昼夜とも弥七郎と彼の儀なく候、なかんずく今夜存じ寄らず候の事。

昨日書いたが、通説にしろ、鴨川説にしろ、乃至説にしろここで問題になっているのが「信玄がやったか、やらなかったか(寝たか、寝なかったか)」ということなのだということでは認識が共通している。


だが俺は「弥七郎がやられたか、やられなかったのか」問題だという可能性もあるのではないかと考えた。しかし、ここでの「寝」や「とぎ」に性的な意味が無いのだとしたら、これは「弥七郎が寝たのか、寝なかったのか」問題となる。正確にいえば「寝させ」とあるので「弥七郎を寝させたのか、寝させなかったのか」だ。


なんでそんなことが問題になるかといえば、庚申の夜に寝ると寿命が縮んだリ、死後地獄に落ちたりするからだ


こう解釈しても意味が通る。すると、

弥七郎、とぎに寝させ申し候事、これなく候

とは「わたくし晴信(信玄)は夜伽(庚申の夜に徹夜すること)に弥七郎を眠らせたことはない」と解釈できるのではないか。
(なおここで眠らせるとはどういうことかという問題がある。何らかの手段で故意に眠りを誘発するという意味もあるけれど、眠りそうになった弥七郎を放置していたという意味も含む可能性もある。これは弥七郎が何者かということにもかかわってくると思われるので後で書く)


次の

この前にもその儀なく候。

だけれど「この前」とは何を意味するのかを鴨川・乃至氏は説明していない。「この前」とは「この前」のことだということだろう。だがこの「この前」とはある時点より前の昨日、一昨日、一昨昨日といった連続した日々のことではなくて「この前の庚申の日」と解釈できるのではないか。


ここまでは、この解釈で無理なく理解できる可能性があると俺は思う。だが次が問題だ。

いわんや昼夜とも弥七郎と彼の儀なく候

「昼夜とも」とある。だが庚申待の説明を見ると

この夜眠ると、そのすきに三尸(さんし)が体内から抜け出て、天帝にその人の悪事を告げるといい、また、その虫が人の命を短くするともいわれる。

庚申待 とは - コトバンク
つまり「寝てはいけないのは夜」ということになる。だから夜寝るのはだめだが昼寝はOKというのであれば、俺の仮説は破綻しそうだ。だが本当に昼寝はOKなのか?夜は寝るのが当たり前だから夜寝てはいけないのであって、昼は寝ないのが当たり前だからあえて昼に寝てはいけないとは言われていないのではないか?信玄も「いわんや」と書いている。「言うまでもない」という意味だ。ここが俺の仮説を左右する重要なポイントだが今の俺にはわかりかねるので保留。


※3/24追記

庚申の日,昼夜寝なければ三尸は滅んで精神が安定し長生できると記す。

三尸 とは - コトバンク
これで一つは解決。


それともう一つ問題がある。「弥七郎と彼の儀なく候」だ。「彼の儀」とは何だろうか?もちろん通説に従えば「まぐわい」のことになる。しかし俺の解釈では「弥七郎を寝させること」だ。だがそれでは「弥七郎と」が解釈不能のように思われる。「弥七郎と」とは「弥七郎と一緒に」ということだろうから。だが、これは弥七郎の正体によっては解釈可能であるようにも思う。これも後で書く。


次に

なかんずく今夜存じ寄らず候の事。

だけれど、これはもちろん「とりわけ今日の庚申の夜に寝させることなど思いもよらない」ということになる。「庚申の夜に寝ることはタブーであるからそんなことするはずがない」という意味で、信玄が強調したかったのはまさにこのことだということになろう。通説では弥七郎と関係していることを疑われたことの釈明だから「今夜」だけではなく今後もしないことを約束すべきはずであり、こっちの方が意味が通じると思う。


(つづく)