武田信玄の「ラブレター」(その14)

最後に源助と弥七郎は何者かについて考えてみる。


弥七郎が信玄の嫡男義信と同じ年頃。すなわち9歳前後の子供ではないかという推理は既に書いた。源助は弥七郎の身を案ずる立場の人間であり、弥七郎と源助は同族の可能性が高いと思われる。父あるいは祖父なのかもしれないが、それ以外の可能性もある。


信玄が誓約書を白紙で書いたのは、源助が当日(庚申の日)に弥七郎が寝させられるのではないかと心配しているからで、昼はともかく夜になれば子供が寝てしまう可能性が高く信玄がそれを放置してしまうのではないかと恐れたのであり、その不安を解消するための誓約書が翌日に届いたのでは遅いのである。


だとすれば源助は甲府からの手紙が当日中に届く場所にいるのだろうということになる。さらに考えれば、信玄が不安に思ったのは、源助が弥七郎を救出するための行動を起こすのではないかということではないだろうか?そのような行動を起こす可能性は低いかもしれないけれど万一起こされたら大変なことになる。


ただし、それが武田家を揺るがすようなことになるのならば、「甲役人」が多いなどと言っている場合ではない。だからそうしなかったのは源助の勢力がそれほど大きいわけではないことを示していると思われる。とはいえ信玄にとってみれば、そのような騒ぎが起きれば信用を落とすことになる。だから穏便にことを済ませなければならない。


もし源助が行動を起こすのならば、最低でも弥七郎が眠気を催す当日の深夜までに甲府に着くように出発しなければならないだろうから、それを阻止するためには出発前に誓約書が届かなければならない。逆に言えばそれが可能な場所に源助はいるのだと推理できる。だから源助はそれほど甲府から離れたところにいるのではないだろう。


次に、誓約書の宛名が「(春日)源助との」になっている件について。これは「春日虎綱高坂昌信)」のことだとされてきた。だが、高坂昌信の仮名は源五郎であり、「源助」とした史料は存在しない。


また、「春日」の部分は、もとの文字をすり消してあとから書かれたもの(柴辻甚六説)だという(『戦国武将と男色』乃至政彦より)。


この文書の画像は
高坂弾正(武田家の人びと)
で見ることができる。といっても画像が小さいので細部まではわからない。確かに「春日」の部分の墨が濃いようにみえるけれど、他の部分でも同じような濃淡があるようにみえる。文字をすり消したというのはどのへんがそうなのかわからない。あと筆跡については素人目ながら明らかに違うとはいえないように思われる。他人が書いたのなら似せて書いたのだろうか?あとから書いたといっても信玄が書いた可能性もある。


この話は前から知っていたけれど、実際に見てみると、源助の名字が「春日」である可能性は言われるほど低くなく、実際に「春日源助」ではなかったかと思われる。春日源助が高坂昌信ではないということを言いたいがために「春日」の部分まで否定するのは慎重であるべきではないだろうか。


春日虎綱高坂昌信)の出自はウィキペディアによれば

甲陽軍鑑』に拠れば、大永7年(1527年)、甲斐国八代郡石和郷(山梨県笛吹市石和町)の百姓春日大隅の子として生まれる。天文11年(1542年)に父大隅が死去した後、姉夫婦との遺産を巡る裁判で敗訴して身寄りが無くなるが、信玄の奥近習として召抱えられたという。

春日虎綱 - Wikipedia
となっている。


「春日源助」もこの甲斐国八代郡石和郷の人ではなかっただろうか?石和郷であれば、先に推理した源助の居場所に符号する。もしそうならば春日虎綱と春日源助は同族の可能性が高いのではないだろうか。


俺は春日虎綱について詳しくないけれど、上のウィキペディアの説明ではなぜ虎綱が信玄の奥近習に抜擢されたのか経緯がよくわからない。だが、もし虎綱が源助の一族なのだとしたら、源助の仲介があった可能性もあるのではないだろうか?誓約文にある

別して知音申したきまま、色々走り廻り候へば

という、信玄が源助と友好関係を築くために図った便宜の中に虎綱の採用も含まれているのかもしれない。虎綱の採用が天文11年頃ならば、弥七郎が採用されたもの同じ頃なのかもしれない、などと思うのである。


ところで、源助が虎綱でないとしたら、源助の素性は不明というのが現在の一般的な見解である。ということは源助に該当する人物が史料上に見当たらないということだろう。信玄に気を使わせるほどの人物が史料で見当たらないというのも不思議だ。そこで思うのは源助が武将ではないのではないかということだ。虎綱の父は百姓だという。虎綱と源助が同族なら源助も百姓なのではないか。だが百姓といってもそれなりの勢力を持っていたのではないだろうか。もちろん当時は兵農未分離であり、また百姓=農民でもない。

ウィキペディアによると虎綱の子孫を称する加藤家は江戸時代に若松屋という大店を経営していたという。これだけでは根拠薄弱だが元々春日一族が商業を営んでいたという可能性もあるかもしれない)



最後に弥七郎だけれど、俺の推理では彼は(春日)源助の一族で信玄の嫡子義信の遊び相手として武田家に迎えられたのだと思われる。将来は家督を継ぐ予定だった義信の側近として活躍が期待されていたのだろう。しかし弥七郎に該当する人物もまた史料上に見出せられていない。実は大人になった弥七郎は史料上に登場するけれど同一人物とみなされていないという可能性もあるけれど、そうではないという可能性もある。弥七郎は実家に帰されて無名のまま死んだということもあるかもしれないし、何らかの理由で殺された可能性もある。しかし、もっと可能性のあるのは「虫気」を訴えていることから考えて、弥七郎は病気もしくは虚弱で名を成す前に死んでしまったとか、武士としての適性に欠けているとして出家したとかいったことではないかと思う。


(おしまい)