ちょと気になることがあったので追記。
「源助」という名前は別に珍しくないんだろうけれど、甲斐にいた「源助」という人物を発見したので書いておく。
その人物は藤堂虎高という。あの藤堂高虎の父だ。
藤堂 虎高(とうどう とらたか)は、戦国時代から安土桃山時代の武将。近江犬上郡藤堂村の土豪。愛智氏を称したこともある。
生涯
近江鯰江城主三井乗綱の次男として生まれた。江戸時代に財を成し、豪商となる三井家と江戸時代の大名家である藤原姓毛利氏(鯰江氏)も同じく藤原姓三井氏の近縁であるとされる。
若くして近江を離れて甲斐の武田氏に仕え、才を寵愛され主君の武田信虎より「虎」の一字を賜るほどとなったが、(巷説では若い他国者の出世に対する同僚の嫉妬により)武田家を離れた。近江に帰国後、藤堂忠高の婿養子となる。
虎高がいつ甲斐を去ったのか、これだけではわからないがとても気になる。
ついでに、これはあまりにも遠い話かもしれないけれど新撰組隊士の藤堂平助。彼は藤堂高虎の子孫だという説がある。
弘化元年(1844年)、武蔵国江戸にて誕生。永倉新八の同志連名記や京都在留当時の風聞書によれば、伊勢津藩主藤堂高猷の落胤とも、伊勢久居藩家老藤堂八座の子との説もある。通称の「平助」は藤堂家功臣の名乗りを嗣いだものとも伝えられ、藤堂の佩刀「上総介兼重」が藤堂家お抱え刀工の作であったためである(会津藩庁新撰組御一行刀改控より)。「上総介兼重」は一介の素浪人が持てるような(安価な)刀ではないことを考えると、落胤の可能性は低くないとも考えられる。
諱は宜虎(たかとら)
で、この藤堂平助が「南部弥七郎(弥八郎)」と改名しているという。
⇒南部弥七郎
「弥七郎」!!しかも「南部」は甲斐国南部郷(甲斐源氏南部氏の本貫地)と関係あるのではないかと思ってしまう。
ちょっとこれはすごい話になる可能性もあるのではないか!(って考えすぎか)
(追記)
なお藤堂氏の出自には諸説あるけれど『寛政重修諸家譜』では藤原氏となっている。で、藤原氏といえば春日大社(春日神)ですね。
あと春日虎綱(高坂昌信)の「虎」はどこからきたんだろうとか(天文11年に出仕したなら既に武田信虎は追放されている)。
あと春日氏と猿田彦と庚申の関係も気になるといえば気になる。