織田信長と前田利家(その2)

織田信長と前田利家のつづき


近代デジタルライブラリー」より

一、利家様、鶴の汁上り候へば、早や御蟲に当り申し候、其故御物語なされ候、信長公、安土山御城に成らせられ候て、何れも御振舞下され、鶴色々の珍物の上に、信長公、御引物を御自身なされ候、柴田前にて御意に、貴殿を始め、度々手柄致され候故、斯様に天下を静め、万事成就、満足申し候由御意、其外夫々に御言葉、扨七八人末座に利家様御座候へば、御引物下され候刻、利家様、若き時は、信長公御傍に寝臥なされ、御秘蔵にて候と、御戯言、御意には、利家其頃まで大髭にて御座候、髭を御取り候て、其方稲生合戦の刻、十六七の頃、武蔵守内宮居勘兵衛といふ者の首を取り侯刻、我等十一になり、合戦初に候、其首を、犬忰なれども、此手柄を見よと、我等馬の上にて振り候へば、味方気を得て、只七八百計りにて、三四千の人数を押崩し候、其如く各々手柄故、斯様に我等天下を静め、万事成就し候由、御意にて、扨も忝き御諚と存ずる所に、御近習衆、通ひを仰せられ衆までも、さても〳 〵冥加なる又左殿かなと、あやかり者と奪合ひ候様に、通ひ物候故に、箸にて、忝き御諚と、ひた物食ひ過し、鶴汁を是非なく過したれば、其後中り申し候と御意にて、御笑なされ候、右の通り、太閤様も度々仰せられ候由、金森法印・羽柴下総守なども、利家様へ御申なされ候を承り、書付け申し候、右合戦の刻は、柴田殿は武蔵守殿衆になる。

これはそもそもどういう話なのかということが肝腎だ。表面的には「前田利家が鶴の吸い物を食べて食あたりしたという話」ではある。だがもちろん大事なのはそこではない。


利家がここで一番言いたかったのは何かということを考える必要がある。ただしそれを考えなければ信長と利家の間に男色関係があったと読めてしまうというわけではない。それはあまりにも強引な解釈である。だけど利家が何を言いたかったかを理解すればそんなことを言っているのではないということがより理解できるはずだ。


話の舞台は安土城安土城で信長は諸将を接待した。鶴などのご馳走が出された上に信長自らが諸将に引出物を手渡した。その時のことを語っているのである。


まず信長は柴田勝家に感謝の意を表した。勝家は織田家筆頭家老だから当然最初になる。信長は順々に家臣に語りかけ、利家は一番最後であった(末座に利家様御座候)。すなわち前田利家はこれら諸将の中で一番地位が低かった。ただしその場にいたのはこれら諸将だけではなかった。乃至政彦氏はこの説明を一切していないけれども、ここがこの話を理解する上で非常に重要なところである。


柴田勝家と利家の間にいる7〜8人が誰なのかは書いてないけれど、丹羽長秀林秀貞(通勝)、佐久間信盛佐々成政滝川一益明智光秀などではないかと思われる。豊臣秀吉、金森長近、滝川雄利(羽柴下総守)がその場にいたことがわかるが諸将の中に含まれているのかもしれないし、そうでないのかもしれない。


上座にいる柴田勝家は信長の弟の織田信行(信勝)に仕えていた。林通具も同様。なお林氏と佐々氏は『信長公記』によれば信長の暗殺を企てたこともある。光秀や秀吉は利家から見れば新参者である。


利家は信長が若い頃から一途に仕えてきた(出奔したことはあるけれど)。それなのに末座なのだ。列席した人々はそのことを知っている。彼らは利家のことをどう思うだろうか?無能だから出世しないのだとか、実は信長に嫌われているのではないかとか思ったりするかもしれない。利家は諸将の中で軽くみられることになるかもしれない。


そういう状況で信長が利家に声をかけたのだ。


もう一つ言えば、この話は利家の家臣が利家の死後に、生前の利家が語ったことを記したものである。利家がこれを語ったのは秀吉が「太閤」と呼ばれた後のことと考えられる。つまり、このとき上座にいたと思われる林秀貞佐久間信盛が信長によって追放された後に語られた話だということになる。


これらのことを考えれば、利家がこの話で何を言いたかったのかが見えてくるだろう。


(つづく)