武田信玄の「ラブレター」(その後)

丸島和洋氏について検索してたら
『戦国大名の「外交」』著:丸島和洋 歴史研究者と戦国大名の距離感  | 読書人の雑誌『本』より | 現代ビジネス [講談社]
という記事があった。


この記事に

もっとも、いくつか信玄の性格を探る手がかりはある。まず自筆書状に注目したい。信玄は、素人目に見ても達筆である。毛利元就織田信長の自筆書状と比べると、その差は歴然としている。ただ、文字が非常に細い。筆先だけを用いて字を書く癖があったらしく、これは達筆の証拠であるという。しかしそのため、墨がすぐ尽きてしまう。

ところが、信玄はなかなか墨を継ぎ足さない。文字がかすれて読めるか読めないか、ぎりぎりまで書いて、それでようやく墨継ぎをする。こういうところを見て、筆者は信玄を良くいえば「几帳面で無駄がない」、悪くいえば「けちくさい」性格と思っている。

とある。


さて、例の「ラブレター」だが、宛名が春日源助となっている。この春日源助が春日虎綱のことだと以前は考えられていたのだが、

^ なおこの間の天文15年(1546年)推定武田晴信誓詞(東京大学史料編纂所所蔵文書)は虎綱を指すとされる「春日源助」宛で、晴信と虎綱の衆道関係を示す文書とされていたが、近年は宛名の「春日」姓が後筆である可能性が指摘されている。晴信誓詞については鴨川(2004)

春日虎綱 - Wikipedia
とあるように、「春日」は後筆だというのが研究者の大方の見方。


しかし「春日」と「源助」の墨の濃淡が違うのは、丸島氏の上の解説で説明できるのではないだろうか?


そもそも前から疑問に思っていたのだが、この文書で墨の濃淡が違うのは「春日」だけではなく花押も濃いがこれも後筆としているものもある。しかし「春日」と「花押」だけでもない。まず明らかに箇条書きの最初の「一」が濃い。次に最初の「誓詞」が濃い。他にも「就中」とか「別而」とか「還而」とかところどころ濃い部分がある。


「春日」が後筆なら、これらも後筆としなければならないんじゃないか?でもそれはさすがにありえないだろう。そこんところどう考えてるんだと。ずっと疑問だった。でもじゃあ何でこんなに濃淡があるんだということは俺もいくら考えても理由は不明だったんだけれども。


でも丸島氏の解説なら、説明可能ではないか。


で、念のために『武田信玄と勝頼―文書にみる戦国大名の実像』(鴨川達夫)を見てみたら

特徴的なのは、全体に字の線が細いことである。そのため墨がかすれてくると、場合によっては判読しづらいほど、弱い字になってしまっている。(p121)

とあり、「図34 武田晴信自筆書状」を見ると確かにこれも同じように濃淡がある。にもかかわらず鴨川氏は信玄の「ラブレター」については「(花押)」「春日」に(後筆)と注記している。何でそうなるのかわからない。


「春日源助」は『「春日」源助』ではなくて「春日源助」でいいではないか。何が問題だというのだろうか?「源助」を「春日源五郎(虎綱)」のことだとするために「春日」を付け加えたというのだろうか?でも「源助」に「春日」を付け足したって「春日源助」にしかならないのであって「春日源五郎」にはならないのだ


なぜ「春日源助」=「春日源五郎」になってしまったのだろうか?


俺が思うにそれは『史徴墨宝. 史徴墨宝考証』によるものであろう。
近代デジタルライブラリー - 史徴墨宝. 史徴墨宝考証 第1編 上・下

甲陽軍鑑ニ源助初テ仕ヘシヨリ三十日の内ニ近習ニ

とある。『甲陽軍鑑』 (ちくま学芸文庫)のこの部分に「源助」なんて文字は出てこない。なぜこんなことになっているのかわからない。「源助」と書いてある『甲陽軍鑑』があるのだろうか?


「源助」に「春日」を後筆して「春日源助」にしたところで、後筆した人物が、それで読者が「春日源五郎」のことだと理解してくれるだろうと期待するには「春日源助=春日源五郎」だという認識が読む側になければならないが、そんな認識は本当にあったのだろうか?そこのところが俺にはわからない。


※「太郎」とあるのに「山田」と追記して「山田太郎」にしても、それを「山田五郎」さんのことだと思う人はいないでしょう。


しかし、いずれにせよ「春日」の文字が濃いのは、「信玄の癖のせい」ということでも説明できるのではないかと思わずにはいられないのである。