武田信玄の「ラブレター」(その3)

今俺は愕然としている。これを書き始めたときにはまさかこんなことになるとは思っていなかった。


天文15年7月5日は庚申だ。この情報は乃至氏の本にも鴨川氏の本にも全く載っていない。


検索していてたまたま見た
春日源五郎覚書(香坂弾正・高坂弾正)
というページに

本来ならば牛王宝印を押した起請紙に書くべきところですが、庚申待ち※の為に人が多いので白紙に書いておき、明日(牛王宝印を押した起請紙)に重ねて書いて差し上げましょう。

という現代語訳があったので、「甲役人」にそういう解釈があるのを知ったのだ。その時点では「そういう解釈もあるんだ」としか思っていなかった。


しかし、この文書が書かれたのがいつなのかということを考えたときに、7月5日が庚申なら特定できるではないかと思いついたのだ。そしたらそれは天文15年である。すなわち鴨川氏の説が正しい。



だが、7月5日庚申が重要なのは、それで年代を特定できるからというだけではない


なぜなら、

一、弥七郎に頻りにたびたび申し候えども、虫気の由、申し候間、了簡なく候。全く我が偽りになく候事。

の解釈に重大な影響があると思うからだ。


「虫気」とは何か?


庚申に気付いていない乃至氏は「腹痛」としているのはともかく、鴨川氏まで

ところが、腹が痛いといって、弥七郎はそれに応じなかった。

と解釈している。単なる腹痛としか考えてないようだ。



ところが、国語辞典によれば

1 子供が寄生虫などによって腹痛・ひきつけ・かんしゃくなどを起こすこと。
2 痛みを伴う腹の病気。腹の中にすむ三尸(さんし)の虫によって起こると考えられた。
「雨にうたれて、持病の―などが起りやしけん」〈逍遥・当世書生気質
3 産気。陣痛。
「当たる十月(とつき)に―づき」〈咄・無事志有意〉

むしけ【虫気】の意味 - 国語辞書 - goo辞書
とある。


この場合の「虫気」が2の意味であろう。すなわち「三尸の虫」によって起こされた病なのだ。

人間の頭と腹と足には三尸(さんし)の虫(彭侯子【上尸】・彭常子【中尸】・命児子【下尸】)がいて、いつもその人の悪事を監視しているという。三尸の虫は庚申の日の夜の寝ている間に天に登って天帝(「閻魔大王」とも言う)に日頃の行いを報告し、罪状によっては寿命が縮められたり、その人の死後に地獄・餓鬼・畜生の三悪道に堕とされると言われていた。そこで、三尸の虫が天に登れないようにするため、この夜は村中の人達が集まって神々を祀り、その後、囲炉裏を囲んで寝ずに酒盛りなどをして夜を明かした。これが庚申待である[1]。

庚申待 - Wikipedia


この文書が庚申の日に書かれたことと、弥七郎が「虫気」を訴えていることと、この二つが無関係だとは思えない。


単なる口実として「虫気」を使ったとは思えないのだ。



さらに、その次の

一、弥七郎、とぎに寝させ申し候事、これなく候。この前にもその儀なく候。いわんや昼夜とも弥七郎と彼の儀なく候、なかんずく今夜存じ寄らず候の事。

の意味も「庚申の日」と関係があると思えて仕方がない。


(つづく)


(追記20:53)
調べた限りではネット上でこの日が庚申だということを指摘している記事は上の記事と
信玄のラブレター・その二|井上渉子の日々のつれづれ。
のみ。そこに

そして千々和先生、この晩が庚申待ちであることと信玄が

「まして今夜はそんなことするはずがないだろう」

とこの夜を強調していることの間には何か関連があるのでしょうか。

とあり、この関係を気にしている人はいるようだ。


千々和到『戦国期の庚申待』(『山梨県史研究』9、2001)
という論文に何か書いてあるようだけれど、俺の住んでいるところでは簡単に見れそうもない。