乃至政彦氏の記事を見てへこんだ

戦国男色の俗説 - 乃至政彦ブログ[虎渓三笑]

 武田信玄の「愛の誓詞」といわれる古文書も、信玄と高坂昌信と某弥七郎の三角関係なる構図で語られることが多いが、何度読み返してもそのように読むことはできない。おそらくこれは男色と何も関係ない史料だろう。どちらかというとタイムスクープハンター「眠ってはいけない”戦国”」でやっていた「庚申待ち」を想起させる内容に思える。

いや、その通りだと俺も思うんですけどね。


でも、そんな主張をしていた人が今まで誰かいましたか?少なくともそれまでネットにそんな主張はなかったし、おそらくはネット以外でも皆無ではないでしょうか?


それを今年になってはじめて主張したのは俺ですよね。
武田信玄の「ラブレター」(目次)


なんで俺の記事を紹介してくれないのかなあ…


そもそも乃至氏の『戦国武将と男色』にはそんな主張は載ってませんよね。というか乃至氏は『史徴墨宝』の「甲役人(甲府の役人)」を採用していて「甲待人」と読んでいないのだから「庚申待ち」と関連付けることができるはずがないですよね。


さらにこの文書が書かれたのが天文15年(1546)だというのは、この日が庚申だということから導きだされるものであって、天文15年に信玄はすでに父を追放して家督を継いでいるので、乃至氏の本に書かれているような、

 信方が激しく諌めたのには、武田家の後継問題という背景があった。当時晴信の父で甲斐守護の武田信虎は現役バリバリで、言うことを聞かない家臣や一族に容赦ない仕打ちを浴びせた。

などという背景説明は成り立ちませんよね。乃至氏は信虎追放(天文10年以前)の文書だと想定しているわけですよね。


ということは、すなわち、乃至氏は『戦国武将と男色』(2013年12月21日初版発行)を書いてから後に主張を変更したということですよね。


なぜ主張を変更したのでしょうか?


乃至氏が俺の記事を読んだ、もしくは第三者が俺の記事を読んで概要を伝えたと考えるのが自然だと思いますけどね。もちろん乃至氏が独自に思いついた可能性もゼロじゃないけれど、しかし今まで長い間に誰も主張してなかったことが、俺が書いたら、他の人も独自に思いついたなんてことが滅多にあるとは思えませんけどね。


やっぱそういう時には経緯を説明する必要があるんじゃないですかね。


俺は日本史界の通説にいろいろと疑問に思うところがあり、それも難しいことではなく頭を空っぽにしてみれば、現在の解釈ではない解釈が可能、むしろそっちの方が自然だと思うことが多々ある。いわば「コロンブスの卵」のように、固定観念によって縛られているが故に簡単なことが見えなくなっている事例がわんさかあると思っています。それについて今まで少し書いてきたけれど、まだ書いてないことも山ほどある。書くペースが遅いのは、書いても認められる見込みが無いというのと、認められたら認められたでコロンブスの卵同様「そんなの当然じゃないか」みたいな、誰でも気付く話だみたいにされてしまうんじゃないかという恐れがあるから。


というわけで、もし、乃至氏が俺の記事を見て同意したというならそれは嬉しいことだけれど、同時に俺のことには一言も触れてないということで非常にへこむわけであります。