前回の続きを書こうと思ったのだが、その前に気になる点があったのでそっちから。
『戦国武将と男色』(乃至政彦)に
これは晴信(信玄の初名)の誓詞である。宛名の春日源助は、のちに武田四名臣として知られる高坂昌信の初名であるという。『史徴墨宝』の解説によれば、昌信は天文十一年(一五四二)に晴信に近習として仕えたから、その年のものだとされる。
とある。しかし「源助=高坂昌信」説は現在では疑問視されており、それは乃至氏も承知しているので、
実際にこの誓詞が何年のものであったか不明である。
としている。
一方、『武田信玄と勝頼―文書にみる戦国大名の実像』(鴨川達夫)では
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この文書は、天文十五年(一五四六)、信玄が二十六歳のときのものである。
とある。理由は書いてない。
書いてないけれど、想像するに、信玄の手紙に
内々法印にて申すべき候えども、甲役人多く候わば、白紙にて、明日重ねてなりとも申すべき候。
七月五日 晴信[花押]
からの推定だろう。
ここに「甲役人多く候わば」とある。この「甲役人」とは何かということだけれど、これは「庚申待の役人」という意味であると思われる。そして「法印」とは「牛王宝印」のことであろう。
⇒庚申待 とは - コトバンク
⇒牛王宝印 とは - コトバンク
つまり「牛王宝印に起請文を書きたいのだけれど、寺社に庚申待の役人が多くいるので白紙でとりあえず書きました」という意味だろう。
だとするならば、この手紙を書いた7月5日は庚申だということになる。そして7月5日が庚申なのは天文十五年ということになる。
⇒公卿類別譜(公家の歴史)-和暦・西暦対応表〔1545年1月1日(天文13年閏11月8日)〜1546年12月31日(天文15年11月28日)〕
この部分を乃至氏は
本当は私的に牛王宝印を押した護符に書くべきところ、甲府に役人が多くて用意できなかったため、とりあえず白紙で用意した。明日にもあらためて書き直す。
という意訳を採用している。「甲役人」は「甲府の役人」という意味になっている。
どっちの解釈が正しいかというのは俺の能力では判断しかねるけれど、おそらくは鴨川氏の解釈が正しいのではないかと思われる。なぜならそう解釈すれば信玄の手紙で
なかんずく今夜存じ寄らず候の事
とあるのには特別の意味があるのではないかと思うからである。
(つづく)