今までわかったこと。
(その1)
柴辻俊六氏は天文5年(1536)の武田晴信(信玄)元服時の官途を
- 『武田信玄-その生涯と領国経営-』(1987)で「左京大夫」としている(らしい)。
- 『武田信玄大事典』(2000/09)で「従五位下左京大夫」。天文10年6月の家督相続直後に「従四位下大膳大夫」。天文19年頃からは「信濃守」も称す。
- 『信玄の戦略』(2006/11)では「従五位下大膳大夫」。
- 『武田信玄合戦録』(2006/11)でも「従五位下大膳大夫」。「左京大夫」と書いた『為和集』は誤記。なぜなら左京大夫の位は従四位下が相当だから。
しかし『膏肓記 武田勝頼の官途』のコメント欄によれば、官位相当制は形骸化している。父信虎も「従五位下・左京大夫」。
- 大永元年4月「従五位下(『歴名土代』)」(『武田信虎のすべて』(2007)「武田信虎の外交政策」丸島和洋)
- それまで甲斐武田家当主の用いる官途は「形部大輔」(同上)
- 「守護格であれば大夫を与えて良い」という認識が生まれるようになっていた(同上)
(疑問)信虎は守護だからいいとして、嫡男の晴信も「守護格」になるのだろうか?
(その2)
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甲府では「武田左京大夫晴信亭会始」(天文十一年正月七日)の後、やはり十三日に「晴信月次会」を開催しており、これも十三年九月まで確認される。
ただし確認したところでは天文11年9月9日以降に左京大夫の記述なし。大膳大夫もなくて「晴信」のみ。
(略)天文十六年と推定される為和宛の晴信書状があるので、原文のまま示す。この書状が為和への直状であるのは、晴信が左京大夫の官途を称したことによるのであろうが、少々尊大な印象を与える。
今川義元(治部大輔)が冷泉為和の近侍の人に宛てた形式になっているのに、晴信が直状なのは左京大夫を称していたからかという意味だと思われ。それは大膳大夫でも言える話かもしれず、天文16年の晴信の官途はこれだけでは不明。『為広・為和歌合集』は影印本なので俺の能力では判読できない。ただ、それっぽい文字は見当たらず、この史料から官途はわからないように思われ。
(その4)
『為和集』は一級史料だけれども、『為和・政為詠草集』(冷泉家時雨亭文庫)の解題によると、まず「上冊」「下冊」が成立し、花蔵の乱の混乱により、天文4年10月から天文9年10月までの「中冊」の成立は最も降るであろうとのこと。
(その5 疑問)
柴辻俊六氏は左京大夫の位は従四位下が相当だから『為和集』の左京大夫は誤記で大膳大夫だったとしている(今もそう考えてるのかは不明)。しかし従五位下でもなれるというのが有力な考えっぽい。それはともかく、そういう論理があるとしたなら、大膳大夫よりも左京太夫の方が良さ気に思えてしまう。従五位下でどっちにもなれるんなら左京太夫の方がいいよねって感じ。なのにあえて大膳大夫にチェンジするのは格下げになるような感覚はないのだろうか?
⇒大膳職 - Wikipedia
とある。それに『武田信玄大事典』には
とあるから官位が上がって大膳大夫になるのは不自然なことではないってことか。ただしこの説は今は撤回されてるのだろう。
結論。よくわからん。